ぼくは何者だったのか考えてみた⑧

中高(割と暗黒)時代をどうにかやり過ごして、
アイドル応援活動(←)を経て、音楽活動をもう一度やってみようかと
なんとなく模索していた予備校時代。
ここで初めての同人誌体験をしていた。

同人誌って面白いよね。
そのあと仕事でも雑誌の制作に関わることがいくつかあるんだけど、
この時の衝動だったのかなぁ、いまにして思えば。
誌面作りのエピソードは後日、
仕事に関して紹介するときにしっかり書いてみます。
最初の“誌面作りの仕事”は、
この予備校時代のすぐあとにやってくるんだ。
そして、その仕事で高校時代のエピソードから今に繋がる、ミラクル?
自分的には結構、すごい流れだったなぁ、と。いま思い返してる。

誌面といえば、いまは、個人的にクリエイターの諸先輩方と
“アート系フリーペーパー”
「THE PAPER」というコンテンツを作っています。
これが面白いんだ、また。
80年代に話題になった、広告やそれこそ雑誌、ファッション誌や
サブカル界隈のクリエーター(写真、絵画、デザイン、音楽など)さん、
そしていままさにこれから、っていう気鋭のクリエーター、アーティスト。
その、人と作品を紹介するっていうフリーペーパー。
あ、これはまた別の話だね。

予備校時代に少し戻ろう。
その時期に出会って、一緒に活動していた仲間に、
TVの小道具、美術の仕事していたエス氏、
役者志望の仮面ライダー好き、というかなりたかったワイ氏、
そして唯一社会人で某有名メーカーF社に勤務していたエム氏。

先に言っておくと、ぼくはみんなトモダチだと思っているんだけど…
いろいろあって…不義理もあって、もう何年も会えていません。。。
きっと機が熟したらまた会えると思っているんだけど、
これを見て、もし心当たりあったらそっと見守っててください。。。
それはそれとして。

当時やっていた「ぺんてる」でアイドルの話題ではなく、
デビュー当時の「B'z」を語るぼくが改めて音楽活動を考え始めるのに
そう時間は掛からなかった記憶があるんだよねぇ。
TM(を含むEPIC)からいわゆるJ-POP、J-ROCKシーンに傾倒し、
そのルーツミュージックを遡ることにも興味を持ったぼくは、
もはや仲間たちとわいわいきゃーきゃーも楽しいけれど、
やはりもう少しクリエイティブな気分に憧れてたんだろうなぁ。

ロクに練習もしないので、ギターも歌も酷いままだったんだけど、
その頃から自分で曲を書く、なんてことをやり出すんだ。

まぁ結局、ギターのリフはマイケルシェンカーやジャパメタ時代の
好きなフレーズにめちゃくちゃ影響受けたものだし、
メロディーはアリス時代にコードに乗っかって
勝手に歌ってた、あの頃の粋を出なかった。
歌詞だって、小室さんの“あの感じ”を目指して失敗して赤面する、という
若気の至り。極まる。

自分に音楽的なセンスやプレイヤーとしての努力が、
圧倒的に足りないことを棚に上げて、それでもクリエーターを気取る、
ダメなタイプのミュージシャン(くずれ)だった。
そんな時に、出会った仲間の内、エム氏だ。
彼は社会人しかも電機メーカーにお勤めだったこともあって、
「SMILE COMPANY」時代に憧れた機材をたくさん持っていたんだよね。

話を聞けば、
自分は演奏は出来ないけど打ち込み(という作業)は好きなんだって。
それで好きな曲をシーケンサーに打ち込んで、再現するんだって。
へぇ~、って思ってさ。

ん?小室さんみたいなことじゃん!ってすぐに気付いて。
でね、一緒にアイドル応援してたエム氏とは
機材話で盛り上がることが多くなっていった。
その流れから、彼の家に行って「オリジナル曲」の打ち込みを、ね。
よくするんですよ。というか、してもらうんですよ。

エム氏の部屋で打ち込んだベーシックトラックと合わせて、
「SMILE COMPANY」Key.タナカくんとも作業を重ねて、
結果、FODっぽい組曲が出来たり。
もはやぼくがギターを重ねるなんてことは無くって。
フレーズだけサンプリングした音源で入れてたな。

まぁそれも詳細は置いておいて。
要は高校以降に出会ったメンバーとは、離れてしまった人もいたけど、
実は結構濃厚な付き合いをするメンバーも出て来ていて、
ぼくの音楽的嗜好も、
打ち込み+ロック、みたいになって行った時期あったので
この頃のちょっと先輩方に遊んでもらったのは
今にして思うと楽しかったし勉強にもなったな。

で、「ぺんてる」で書いていた「B'z」なんだけど、
ぼくが書きたかった曲って、まさにああいうことだったんだろうなぁ。
マイケルシェンカー+小室サウンド、ある意味もうB'zじゃんね。
わかる人に伝わればOK。しかもFOD的組曲まで。

つまりさ、何が言いたいかって。
自分の努力をせずに“ええカッコしぃ”の
なんちゃってプロデューサー気取り感が顔を出し始めた時期だったんだ
ということ。

だけど、この経験ってのちに、本職として昇華していくんだよ。不思議と。

しかも、「なんちゃって」という感覚、これが非常に重要なことだった。
もちろん、いまだからこそ言えるんだけど。
一応ちゃんとプロとして音楽業界で働くことになっていくんだから。

そんな経験を仲間たちとしていく中で、
レコード会社、たしかキティレコードだったと思う。
が、開催したアーティストとプロデューサーの同時オーディション企画に
参加したんじゃなかったなぁ。
この時は既にプロデューサー側でエントリーしたんだ。
クラブチッタ川崎での本選でライブを披露した記憶があるんだけど。
記憶を捏造してなきゃいいんだが。(概ね合ってるハズ)

それが、予備校から大学進学する頃かな。
いよいよ、怒涛の大学生活が始まっていく。
日本大学芸術学部。
ちなみに、この時の受験は映画学科と放送学科を受けて、
映画は落ちた。放送に引っ掛かって、かろうじて入学することが出来た。

なんで映画学科だったのか。
音楽を作るのに、好きな作品や監督が居て。
バンドマンとしての憧れはやや薄れていく中で、
スタッフ側、とくに制作権限を持てる監督やプロデューサー、
という肩書に興味を持って。
実際に何をする人なのかは知らなかったんだけど、
キティのオーディションに参加したときからなんとなく、ね。

だけど、音楽の仕事に憧れる割には、どうも少しずつズレてるんだよなぁ。
だけどこの雑食が将来役に立つことになる。

もちろん、18歳19歳ではそんなことはわかるはずもナイ。

結論から言えば、
希薄な動機で唐突に始まった4年制の芸術系大学生活は、
女の子と音楽に溺れて突然、終わる。
実質1年の4月と2年の4月しか、通っていないみたいなもので。
や、正確には学校には行くんだけどちゃんと授業は受けていない、
みたいな典型的なダメ人間タイプだった。



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