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法螺

「順」

手紙

 「何でもない」と言ってしまう。癖だ。
人は時が経つにつれ成長するものだと思っていたけど、どうやら違うことに気付くのに23年もの歳月がかかった。しかし、時が経つにつれ人は身も心も消耗していくことに気付くのには、社会に出て2ヶ月もかからなかった。
 真面目に謙虚に誠実に生きるという目標は、真面目に謙虚に誠実に人から見られるように生きる変わり、僕は嘘をつくことを覚えた。もう限界だった。会社帰り。また電車を見送ってしまった。
 ずっと続けてきた会社だったし、特別不満があるわけじゃないけど、辞めようと思っていた。商品をお客様にご購入頂くため、ごまかしの嘘をつく。天職だった。仕事のできない僕にとって、仕事が苦じゃないというだけで、十分続ける理由として事足りた。しかし、そんな自分に向き合い続けることが何より苦しかった。りくなびに出てきた辞表の書き方は難しすぎて何一つ真似できなかった。今日もまた出せなかった。
 夜の駅のホーム、缶ビールを片手に、キヨスクで買った弁当を食べる。最近になってからのマイブームだ。高校生の頃はこんな大人を内心笑って見ていたなあと思いながら箸を割ると、片方の箸に、もう片方の根っこが全てもっていかれた。ことごとく僕は、なんにもうまくいかない。弁当箱と飲み干した缶ビールを捨てようと、ゴミ箱を探す。ホームには無い。階段を降り、コンコースへ。しばらく歩くと、和歌山電車旅と書かれたパンフレットが目に入り、ふと手に取る。中を開いて3ページ目、和歌山の話題の無人島と書かれている。話題になっているような無人島に無人島の本当の価値はあるのだろうか。そしてその端っこに、小さく描かれた島を見つけた。名前も書かれていない小さな小さな何でもない島。あとで調べよう、パンフレットを戻し、横にあったゴミ箱に箱と缶を捨てた。
 ベンチに戻り箸を捨て忘れていたことに気付く。最悪だ。そのときだった。
「これ、あなたのですか?」
その女性はくしゃくしゃに丸めて破り捨てた僕の辞表を手にしていた。
「あ、すみません」
「恋人への手紙とかですか?」
「まあ、そう、なんですよね」
一瞬意味を介せなかったが、その場しのぎの言葉が先に口から出ていた。
「わかります、上手くいかないもんですよね」
僕の辞表を、恋人への別れの手紙だと思っているようだった。
「ああ、まあ僕は特にそうなんですよね。割箸もうまく割れないくらい」
咄嗟に出た嘘ではない言葉をごまかすために、さっき捨て忘れた歪な割箸を見せた。
「八分音符みたいですね。なんか楽しく食べれるかも」
素敵な人だなと思った。出会ってまだ1分程度で、僕の中の嫌だったものが、ちがう色になっていく。
「たしかに、でも八分音符やと、いつもより早く食べないといけないかもしれませんね」
その高揚が僕に口を滑らせ、彼女はただ不思議そうな顔をしていた。
「彼女はどんな人なんですか?」
そういえばそんな事言ってたなと気付き、また嘘を重ねる。
「ああ、亡くなったんですよね」
「そうなんですね、だから。」
「だから?」
「本当に好きな人に旅立たれたら、いなくなりたくもなるかもなと思って」
遠くを見つめる彼女の目に、形ある何かが映っている気がした。
「そうなんですよね。ずっと続けてたんですけど、もう終わりにしようと思って」
僕の頭に浮かぶ何かは、ぼんやりと、ふやけている。
「じゃあ、出しに行きましょう!」
そう強く言われるがまま、気付けばポストに辞表を入れていた。郵送で出した辞表が受理されるのか。そういえば辞めますって書いてないな。親に連絡されたりするのかな。色んな不安が頭を飛び交ったが、それを全て消し去るほどに、解き放たれたような気持ちがあった。その瞬間僕は、何ものでもない何かであった。
「あの、健さん」
「健さん?」
「違いました?手紙にそう書いていたので」
さっき破った辞表の、歪に破った片側に、「三」とだけ書かれていたことを思い出す。
「いえ、あってます。名乗って無かったですよね。小坂健といいます」
「ハルです」
「ハルさん、よろしくお願いします」
この嘘に身を任せてみようと思った。
「あの、健さん」
「はい!」
「私と同棲しませんか?」
何度も頭の中をぐるぐると回った後、噛み砕けずに口から出た。
「家引き払って行く場所が無くて」
「あ、いや僕は全然いいですけど、その」
「あ、でも大変ですよね、お仕事とかもあるし」
「それはまあ大丈夫ですかね」
「そうなんですか?」
「いやその、なんというか、丁度今長期休暇が決まったので」
一つの手紙から、何でもない、僕らの同棲生活は始まった。

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