村上春樹をめぐる

私は村上春樹の小説が嫌いだ。

エッセイはわりと好きで、ananに連載されていた「村上ラヂオ」のシリーズは持っている。

私は、中学高校と女子校で過ごした。村上春樹のことが授業で語られることはなかったし、周りで読んでいる人もいなかった。大学に入って、小説が好きだという男子のほとんどが、村上春樹ファンだった。研究室の友人は、うざいほどに村上春樹が好きで、語り始めると止まらず、辟易した。どれだけ「いい」と言われても、触手が伸びなかった。むしろ、村上春樹ファンの男子たちがうるさく言う度に、村上春樹から遠ざかった。

中高時代に、村上春樹を知らなかったわけではない。村上春樹か村上隆かという議論の存在は知っていたし、ノーベル賞の時期になる度に騒がれることも知っていた。好きなミュージシャンが「村上春樹の『ノルウェイの森』がよい」と勧めていたので、親に「貸して」と言ったことがあるが、「あんたにはまだ早い」と言われて貸してもらえなかった。当時、演劇部に在籍していて、芝居の脚本に村上春樹作品が出てきたのだが、興味が湧かなかった。

高校1年生の教科書に「鏡」という作品があり、その授業もしたが、そのときは、ふーん、という印象だった。外国人の同僚が、飲み会で、村上春樹について熱く語っていた。彼が何か一つの物事について熱く語るなんて珍しい。英語でも日本語でも読むそうだ。『神の子は皆踊る』は神戸の震災の話だから読むといいよ、と勧められたが、放置した。

それが、ステイホーム中に、たまたま三人から同時に『ノルウェイの森』を強く勧められた。全員男子。村上春樹の口調まで勉強させられた。辟易した。しかたなく、本屋に行った。前日にLINEしていた人も『神の子~』を勧めていて、しかもそれが平積みになっていたために、買った。

読んだ。

やっぱり、無理だ。

村上春樹好きには男性が多いと断言する。女子で好きな人は、少ない。少なくとも、私の周りにはいない。中高の友だちの一人は、「三行以上読むことができない」と言っていた。女子から村上春樹を勧められたことは一度もない。

小説の中に、性描写が度々出てくる。性描写自体にはもう驚かない年齢になっている。でも、何も、きゅんきゅんする要素がないのだ。たぶん、私は、性的なことに移行するまでの過程が描かれるのを楽しみたい派だ。いい雰囲気になって、キスをして、そして…という。そういうのが一切省かれ、いきなり。そして、曖昧な言葉は使わない。そのものをずばりと表現する。性描写に心がついて行けず、どん引きする。性的なことに対する、男性と女性の考え方の違いを突きつけられるような気がする。

村上春樹は、文学として分析されるべきだろう。とくに、文体や構造においては。でも、私は、心理学や精神医学の面からも分析されるべきだと思う。村上春樹は、河合隼雄と複数回対談したらしい。村上春樹が、一人と複数回対談することは珍しいという。村上春樹自身も、河合隼雄と話すことを必要としていたのではないか。河合隼雄が分析するのが一番だと思うけれど、私は、ほかの心理学や精神医学の人がどのように村上春樹を分析するのかを知りたい。そして、私は、心理学や精神医学に興味はあるものの、知りたくない気持ちが勝ってしまい、本格的に勉強することはしない。だから、村上春樹の書くことに、心理学や精神医学の要素を感じて、遠ざけようと思ってしまう。

村上春樹作品では、よくパスタを茹でている。たぶんトマトソースのことが多いんだろうけれど、そのパスタがどうなったのか、どんな味付けだったのか、美味しかったのか、付け合わせは何だったのか、は、書かれないことが多い。やけに気取った飲み物を飲んでいる。モスコミュールとか。間違っても、焼酎や梅酒は飲まない。流れる音楽は、洋楽、しかも媒体はレコードだ。間違っても、Mr.ChildrenやBTSではない。何か、私からしたら、浮き世離れした世界。地に足がついていない、ふわふわした世界。だから、そのような世界について、遠い目をして語る男子たちを、半ば軽蔑していた。村上春樹好きだと言うことがおしゃれだと思っているんじゃないの?と。

『ノルウェイの森』は、勤務先の図書館の開架にはなく、読んでいない。でも、あまりに村上春樹好きの友人たちがうるさく、―また、「バースデイ・ガール」の授業をしなければならなかったものだから―勤務先の図書館の開架にあった『騎士団長殺し』を借りた。なんとこの本、芦田愛菜が勧めているらしい。中学生の女の子が。この年になっても、まだ、「村上春樹小説は早い」と私は思っているのに。

そして、やっぱり、『騎士団長殺し』は村上春樹節全開だった。主人公の周囲の登場人物の描写は細かいくせに主人公の名前はわからず、主人公はパスタを茹で、レコードを聴き、車の車種にもうるさい。軽々と不倫をし、性描写も直接的なものだ。どうやったら、定期的に、性的な関係を結ぶだけのために自宅を訪れてたっぷりと満足させてくれるような異性の友だち(ガールフレンド)が、そうたやすく手に入るのだろう?

「ワンナイト・ラブとか、そういう大人っぽいことを、みんな、いつ覚えるのでしょう」と、LINE友だちは言った。彼の言い回しは、ときどき村上春樹が混じるので辟易するけれど、それも含めて非常に私は気に入っている。

しかし、この『騎士団長殺し』、三行読んでもう無理、となるかと思ったら、意外にするすると読めてしまったのだ。親しかった友人の実家のある小田原が舞台だからというのもあったし(でも小田原である必然性はわからなかった)、芦田愛菜に対抗したかったというのもある。でも、読めてしまったのだ。後半は、性的な意味合いを越えての、心理学か精神医学の世界に行ってしまい、助けてほしい感覚に陥ったけれど。

『一人称単数』という短編小説集が出たらしい。Tシャツをめぐるエッセイも出たらしい。『猫を棄てる』は(村上春樹の父親の話で、いつもの軽みはなく、異色だったけれど)、無理なく読めた。村上春樹節のルーツが、少し垣間見られた気がするエッセイだった。この短期間に、三冊も新刊が出ている。恐ろしい人だ。呼吸するように文章を書くことができるのだろう。

私のステイホーム期間は、村上春樹に毒されていた。ラジオも聞いたし、自分の持っているエッセイも読み返した。

嫌だ、アンチだ、と言いながら、なんだかんだでこれからも村上春樹作品にトライする気はする。いつ、『ノルウェイの森』を私が手に取り、理解し、私に勧める人たちと同じように感動できるのかどうかはわからないけれど。