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所有しない

20221月30日

「所有」という概念について考えてみた。

こないだ聞いたコテンラジオでは、所有という概念は資本主義社会の特徴の一つだそうだ。

資本主義社会では「すべてのもの」が「誰のものか」をはっきりさせないといけない。

土地も時間もありとあらゆるものすべてを。

でもそれは、私にはなんだか不自然で息苦しい考え方な気がした。

森から石を拾って持ち帰ったら、その森は誰かの所有物であるだろうから窃盗になるのか???

そんなこといちいち考えなきゃいけない社会に嫌気が差してきたところだ。


そもそも、所有している(=持っている)とはどういうことなのだろう。

金持ってる、土地持ってる、りんご持ってる、ボールペン持ってる、誰かの作品を持っている、自分の意見を持っている。

自分のもので、好きに使えて、もし盗まれたら返すよう訴えることのできるもの。

自分の意思で、いつでも「使う」ことができるものたち。

でも、私は本当に「持って」いるのだろうか。

人は、「持つ」ことができるのだろうか。


自然界では「持つ」という概念はない気がする。

植物や動物が自分の所有権を主張し、それが奪われたから報復しにいくことはないと思われる。(自分が食べてた食料を横取りされそうになって抗議することはあるが、それは「自分が取ったから俺のものだ!」というより、相手が自分と同等か弱かったから攻撃するわけで、自分より強い奴が来たら潔く譲るだろう)

人間もしばらくは「所有」という概念はなかったらしい。

なんで「所有」という概念が生まれたのか考えると、もしかしたら弱いものが生き残るすべだったのではないかと思う。

喧嘩が弱いと、食べ物を奪われて、死んでしまう。

頑張って蓄えた食料を盗賊に一瞬で奪われ、王様には税金と言われ搾り取られる。

そこで、頭はいいが力が弱かった人(庶民とか?)が、そいつらに負けないように「所有」という概念をでっち上げて戦ったのではないか。

完全に私の妄想だけど、そう考えると生きる術としてはかなり有効的だ。

ただ、今の社会ではその「所有」が苦しみを生むことになってしまっている気がする。


「所有している」という感覚は、心を乱し、争いの火種となりうる。

例えば、誰もしかに自分財布を盗まれたら、「ふざけんな!返せ!!!」と怒り狂うだろう。

でも、何も所有していないのだとしたら、財布を盗まれたとしても「あぁ、然るべきところに行ったんだな」と受け入れることができるかもしれない。

それってなかなかいいなぁ、と思う。

ものにとらわれない、心おだやかな生活。

今は「生きること」に対するハードルはとても低くなっているし、価値も多様化しているから、弱くても所有という「生き延びる術」に頼らなくても生きていける。


ぐるぐると巡る自然の循環の中で、私は何も持っていない。

このりんごも、土や水や空気や光が生んでくれた。

誰かが育てて、ここまで運んでくれた。

自分の考えだってそうで、本を読んだりラジオを聞いたり、いろんな人のいろんな言葉を聞いて、自然や周りの人たちと関わり合う中で生まれてきた。

自分1人では何も生み出せないのに、「自分のもの」だなんて私は言えない。

今まで必死に主張してたのが恥ずかしいぐらいだ。

(かといってまだ財布盗まれても心穏やかな自分ではいられないと思う笑)

お金だってそうで、

自分で稼いだからと言って自分のものではない。

頼まれたことをやったら、お金という便利な交換券を渡してもらえた。

それが一時的に自分のところにあるだけ。

一応私が使えるそうなので、好きなものを食べたり、好きな人を応援するのに使おうか、ということに過ぎない。

お金がある・ないの違いは、使えるものが多いか少ないかってだけ。使えるものが少ないなら、その中で工夫をすればいいだけだ。


「所有する」っていうのは、自分を守る手段であると同時に、今の私には自分で自分を縛っている呪いになってしまっていた。

私は何も持っていない。

そのことがすとんと胸に落ちた時、呪いが溶けて、フラットな自分になれた気がした。

そこに「ある」・使えるから「使う」。ただそれだけ。

自然の流れに、循環に身を任せるだけ。

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