小説『ラスト・シングル』~もし、あの音楽家が最後にもう1枚シングルを出していたら~ 第3話:ザ・シルバーキャブズ『Far from you, Far from over』
はじめに:今はなき『水道橋博士のメルマ旬報』に5話ほど連載した「ドキュメント小説」です。あと4話すでに出来上がっています。ご興味ある方はお気軽にご一報ください。
1.
1967年の秋。横浜磯子生まれの吉田未知男は、本来なら学生生活を謳歌しているはずの高1にもかかわらず、学校を最近、休みがちになっている。
休んで何をしているのか? 米軍基地を回っているのだ。横須賀、座間、相模原、厚木、上瀬谷……国道16号線沿いの「ベース」を、バンマスの運転するクルマに楽器を積み込んで、ひたすら回る。
そう、吉田は若くしてバンドマンなのだ。担当はキーボード。子供の頃からクラシックピアノを学んでいただけでなく、テレビやラジオから聴こえてくるベンチャーズやビートルズの曲も、一度聴いただけで、器用に弾きこなすことが出来た。
そんな腕前が重宝されて、ひと世代・ふた世代上のバンマスが率いるバンドにひっぱりだことなり、今日もベースを回って、キーボードを弾く。
ベースの中にある若者向けの「ティーンエイジ・クラブ」や、下士官向けの「EMクラブ」での演奏は、とてもエキサイティングだ。いや「エキサイティング」というのは、言葉が甘い。もっと具体的に表すと「エキセントリック」。観客はいつも殺気立っている。
白人兵と黒人兵が入り乱れている。吉田らバンドメンバーは、舞台に立った途端、「白」と「黒」の比率を見極める。もし「白」が多かったら、最新のトップ40の曲や、ドアーズやジェファーソン・エアプレインなどの白人バンドのサイケデリック・ロックを選曲、逆に「黒」が多い日は、ジェームス・ブラウン、ウィルソン・ピケットの黒人音楽を用意する。
肌の色に合わせて、多数派に合わせた音楽を演奏するのだ。しかし、殺気立った観客は、収まるどころか、さらにテンションを増していき、演奏の盛り上がりに合わせて、客席のどこかで、必ず喧嘩が始まってしまう。喧嘩の組み合わせは「白」対「黒」の場合が多いのだが、「白」対「白」、「黒」対「黒」の場合もある。
数人の場合ならまだいい。時には数十人規模の、喧嘩というよりは、暴動のような状態になるときもある。そういうときバンドは、一時演奏を止めて、収まるのを見届ける。
そうして、騒ぎが収まったのを見計らって、強いビートの曲ではなく、例えば、吉田のキーボードによる、バロック風のイントロから始まるプロコル・ハルム『青い影』(A Whiter Shade of Pale)などの静かな曲で、様子を見ることにするのだが。
ある日、横須賀ベースのクラブで、吉田のバンドが演奏していたときのこと、気弱そうな、のっぽでやせっぽちの黒人兵が、ステージの下から大きな声で吉田に話しかけてくる。演奏が終わって、話を聞いてみると、どうも「ジミ・ヘンドリックスの『パープル・ヘイズ』を演奏してほしい」と言っているようだ。
吉田は最初、そのリクエストを断ったのだが、それでも黒人兵は、いよいよ泣きながら懇願してくるではないか。何か理由があるのかと思い、「どうしてそんなに、ジミ・ヘンを聴きたいのか」と問い質したら、黒人兵は、こう答えた。
「俺は、明日ベトナムに旅立つ。ベトコンからの攻撃が絶え間ない、とても厳しい戦線に送り込まれる。たぶん俺は帰ってこれない。だから今、ジミ・ヘンを聴きたいんだ――最後の夜に」
吉田はバンマスに言った。
「こいつに『パープル・ヘイズ』をやってあげましょう」
ギタリストが『パープル・ヘイズ』の歪んだ音のイントロを弾き始めた。黒人兵は泣きながら、狂ったように踊り始めた。
見事なダンスだった。
驚くほど長い両脚をバタバタとさせる見事なダンスに惹かれるように、その黒人兵を中心として、ダンスの輪が広がっていく。『パープル・ヘイズ』の強いビートに焚き付けられて、フロア全体が最高に盛り上がった。
「たぶん俺は帰ってこれないんだ」――吉田は、その言葉を心の中で、何度も何度も確かめた。
吉田が、アメリカという国を、特別に意識し始めたのは、その瞬間だった。
2.
「ミッチー吉田」と呼ばれることになった。
ベースで培われた演奏力が評価され、横浜出身の人気グループサウンズ(GS)=ザ・シルバーキャブズ(キャブズ)のメンバーに招かれたのだ。
そして「全員混血児(ハーフ)のメンバーとして売り出したい」という所属事務所の意向もあり、「ミッチー吉田」と名付けられたのだ。もちろん「ミッチー」は本名の「未知男」(みちお)から来ている。
実は吉田だけではなく、ボーカルでリーダーのデイビー平田も、実はハーフではなかったのだが、戦後20数年、俳優界やモデル界にハーフが増え始め、彼(女)らのバタくさい見てくれがおしゃれだという気運が生まれていたこと、加えて、メンバー全員が、アメリカの匂いがぷんぷんする港町・横浜出身だったことなどから、所属事務所が先のような判断をするに至ったのである。
キャブズは大人気GSになった。来る日も来る日もステージとテレビ局の往復。おびただしい数の女性ファンに囲まれた。
いわゆる「グルーピー」(追っかけ)も吉田に付きまとい始めた。まだ10代、女性など知らなかった吉田だが、それでもキャブズのメンバーとしてデビューした直後に、女性についても「デビュー」することとなった。
そんな賑やかで楽しい日々が続くのだが、唯一、レコード会社からあてがわれる曲には我慢ならなかった。
特にシングル曲は、職業作詞家・作曲家による、やたらとエレガントで少女趣味なものばかり。吉田が加入する前の大ヒット『長いまつげの少女』などはその典型で、特にテレビ番組では、そんなシングル曲ばかりを演奏させられることに閉口した。
コードで言えば、【Am】【Dm】【E7】が続くような暗くて単純な感じ。それらのコードを鍵盤で追いながら吉田は、「ここにディミニッシュを入れると、もっと洒落た響きになるのに」「エンディングはメジャーセブンスにすると都会的なイメージになるのに」などと考えてしまうのだった。
グルーピー、スポットライト、テレビ局のスタジオ、ジャズ喫茶、そして、日劇「ウエスタンカーニバル」――。
1968年、まだ10代、17歳の吉田にはクラクラするような毎日が続いた。それでも自分を保ち続けることが出来たのは、「ここにディミニッシュを入れると、もっと洒落た響きになるのに」とついつい考えてしまうような、音楽への飽くなき姿勢があったからだ。
ただ他のメンバーはそうはいかない。ハードスケジュールが続く中、不平不満も溜まってきたようだ。元々、横浜の不良たちが集まって出来たバンドだ。不満が増すに連れて、自分勝手な行動も増していった。
見かねたデイビー平田は、メンバーにこう言った――「久々に本牧、行ってみるか」。
3.
土曜日深夜の横浜本牧。街灯も消え、暗く沈み込んだような市電通りに向かって、その店の周辺だけが明るい光を放っていた。
その店の名前は「シルバーキャブ」。シルバーキャブズは、この店のいわゆるハコバン(定期出演するバンド)として結成されたのである。つまりここは、彼らの故郷だ。
リーダーのデイビー平田は、不平不満でキリキリしているメンバーの気分転換にと、一度「故郷」に戻ってみるのもいいかと思ったのだ。
「帰郷」ではなく「凱旋」になった。
全国区の人気を得たキャブズが帰ってくるという情報を聞きつけ、客が殺到。店に入りきれない数の客が、市電通りの対向車線にまで溢れるほどだった。
思い思いの外車に乗って、メンバー5人が東京から本牧に戻ってきた。市電通りにクルマを停めて降りた瞬間、メンバーは拍手と歓声に包まれた。
取り囲むのは、シルバーキャブの常連客だ。おおよそ百人はいるだろうという群衆の中に、日本人は半分もいない。米軍兵の白人と黒人、さらにはチャイニーズにコリアン、そして日本人。様々な人種・民族のごった煮。様々な肌の色の人たちが、様々な言葉で、キャブズを祝福する。
実は吉田にとって、シルバーキャブの中に入るのは、これが初めてだった。
キャブズは確かにシルバーキャブ出身のバンドなのだが、キャブズがここで演奏している時代には、まだ加入していなかったからだ。
もちろん、横浜出身のバンドマンとして、シルバーキャブのことは知っていた。でも、様々な人種・民族が、週末の深夜に異様な盛り上がりとなっているさまが、あまりにおっかなかったので、いつも遠巻きに眺めていたのだ。
今夜、初めて、あのシルバーキャブの中に入る。入る……。
入った。
「これか! これがあのシルバーキャブなのか!」
小さなカウンターがあり、その後ろにちょっとしたフロアがある。本来ならそこはダンスフロアなのだが、今日は、キャブズ目当ての客でごった返していて、立錐の余地もない。
シルバーキャブのマスターが、関西弁まじりでデイビー平田に言う。
「久々に、演(や)ってみてくれや!」
それを聴いた様々な肌の色の客が大いに盛り上がる。デイビー平田は、ちょっと恥ずかしげに手を挙げた。そして、重なり合った客と客の間をかきわけ、メンバーがアンプやドラムセットが並べられている片隅に向かう。
マイクを持ったデイビー平田が話し出す。
「ハロー、シルバーキャブ! 帰ってきたぜ!」
演奏が始まった。ライブでの定番曲『モジョ・ワーキング』。マディ・ウォーターズの曲で、甘ったるいシングル盤の世界とは異なる、ライブにおけるキャブズの名刺代わりの1曲だった。
控えめな音量でオルガンを弾きながら、吉田は盛り上がる観客を眺めた。
白人と黒人が、肘をぶつけ合いながら盛り上がっている。その周りでチャイニーズもコリアンも楽しそうだ。キャブズの音楽が、人種や民族、肌の色や言葉、そんなあれこれが気持ちを一切隔てることのないシャングリラが、少なくともこの場、この一瞬には生まれている。
「あぁ、僕は、こういう音楽がやりたいんだ」
吉田は気付いた。音楽なら、こういう世界を作ることが出来るんだということに。
ベトコンと戦うため、つまりはベトコンを殺すために旅立った、あののっぽの黒人兵の涙がない世界を。
セッションは明け方まで続いたが、吉田に疲労感などなかった。むしろ自分の音楽の方向性に射し込んだ光を浴びて、意識がらんらんと覚醒するのを感じていた。
4.
1970年。大阪で行われた万国博覧会で、日本中が大いに盛り上がっていたのだが、逆にグループサウンズ(GS)ブームは、その盛り上がりに反比例するように退潮、数年前、あれほどの人気を得ていたGSバンドが、次から次へと解散していった。
しかしキャブズは、その確かな演奏力とセンスの良さを武器に、「GS」ではなく「ニュー・ロック」のバンドとして生まれ変わり、全盛期ほどではないにしろ、意識的な若者から一定の支持を集め続けていた。
吉田は、バンドの中での存在感を徐々に高めていった。キャブズが音楽性を追求すればするほど、どうしても、吉田の深い音楽的知識が必要になるという構図だった。
そもそもキャブズは、メンバーチェンジが激しいバンドだった。この頃の「第5世代」のキャブズは、リーダーのデイビー平田以外の古参メンバーが抜け、吉田と同世代のメンバーで固められていたことも、彼の存在感を高めた理由の1つだった。
レコーディングでは、デイビー以外のメンバーが車座になって、アレンジやコードについて議論を重ねながら進めていく。議論の中心は吉田だ。
「ここのコードは、こういう展開にすると、ジャズっぽくていいよ」
「あそこのドラムスは、もっとタメを持たせるといいんじゃないかな。ミックスのときに、リバーブをかけるから」
音楽性を高めること。他のGSではあり得ないような、本格的な音を創り上げること。そして、遠く離れたアメリカで、今生み出されているような音楽と比べても、遜色のないものを完成されること――。
「第5世代」の「5」から名付けられた『フィフス・ディメンション』というアルバムの制作が進行中だった。
「これならザ・バンドや、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドや、クリアデンス・クリアウォーター・リバイバルにも負けないかもしれない」
そう思いながら吉田は、キャブズのメンバーとともに『フィフス・ディメンション』を完成させて、世間の評判を待った。
もちろん自信作だった。「これが発売されると、日本のロックシーンはがらっと一変するぞ」と吉田は思った。
しかし、そう思いながらも、吉田は、心の中にぽっかりと開いた隙間のようなものがあることも、同時に感じ始めていた。
その隙間が何なのかは分からない。やっと自信作が完成したにもかかわらず、まだ満たされない何かがあるのか? いや、満足度の問題というよりも、そもそもの問題の立て方が、これで正しかったのか?
そして吉田が、自らの心の隙間のことを思うと、あののっぽの黒人兵のことが、いつも心に浮かんでくるのだった。
――「たぶん俺は帰ってこれないんだ」
翌71年の1月、『フィフス・ディメンション』発売。さすがの評判。売上も順調で、ファンからの評判も最高。様々な音楽雑誌で絶賛された。
「キャブズ、いよいよアメリカ進出か?」と、根拠のない推測記事を報じたメデイアもあったほどだ。しかしこれも、『フィフス・ディメンション』のクオリティの高さが呼び込んだものなのだ。
吉田は精力的にアルバムのプロモーションをこなした。心の隙間のことも忘れて、「洋楽にも負けない音です」と、そこかしこで言い放った。
しかし、そんなある日、吉田は、衝撃的な批評を目にする――。
5.
ジャズ喫茶の楽屋のテーブルに、ぽつんと置かれていた音楽雑誌『ミュージック・ノート』を、吉田は手に取った。
音楽雑誌をわざわざ買うようなタイプではなかったのだが、雑誌の後半に載っている新譜批評のところには興味があったので、たまに目を通していた。
「『フィフス・ディメンション』は、どう評価されているのだろう?」
そういう興味もあって、吉田はおそるおそるページをめくった。
『フィフス・ディメンション』の批評を担当したのは、音楽評論家のSだった。SはラジオDJとしても活躍しながら、音楽評論家として、特に、広がり始めていた日本のロックを中心とした評論を、音楽雑誌にしばしば寄稿していたのだ。
内容は、このようなものだった。
――ザ・シルバーキャブズ『フィフス・ディメンション』:これまでのキャブズのイメージを一新させる意欲作。これまでは、インプロビゼーションに長けたブルージーなスタイルだったが、今回の『フィフス・ディメンション』は、そのような良さも残しながら、ミッチー吉田の貢献もあって、とても洗練された音作りになっていて、まるで、今のアメリカで生み出されているコンテンポラリーな音楽を聴いている感じすらする。
「我が意を得たり」と吉田は思った。「この評論家Sとやら、面識はないが、ちゃんと自分のことや、『フィフス・ディメンション』というアルバムに自分が込めた、新しいキャブスへの思いを理解してくれているじゃないか」と、嬉しくなった。
しかしその批評は、予想外の方向に転回する。
――惜しむらくは、歌詞が全編英語だということだ。正直、歌詞の内容もメッセージ性に乏しいし、発音も中途半端。このままだと「アメリカの音楽を見事に真似した、でも決してアメリカの音楽ではない日本の音楽」に過ぎない。もしキャブズが、本当に世界のマーケットを目指すのであれば、その第一歩として、世界に伝えたい、自分たちならではのメッセージを持つことから、始めなければいけないだろう。去年リリースされた、はっぴいえんどというバンドの、全編日本語のロックで構成されたデビューアルバムは、そういう野心の下で、すでに一歩踏み出しているし、フォークになるが、よしだたくろうの歌は、この極東の島国に住む1人の若者としての彼に内在する生の言葉で歌っているからこそ、爆発的な人気を得ているのだ。今のキャブズに必要なのは、他の誰でもない自分たちのメッセージを、日本語で書き、そして日本語で歌ってみることではないか。
吉田は衝撃を受けた。単なる悪態であれば衝撃など受けない。痛いところ、つまりは本質を突かれたからこそ、衝撃を受け、激しく動揺したのだ。
そして、『フィフス・ディメンション』の制作が、順調に進んでいくのに比例して広がっていた、あの心の隙間が生まれた理由も分かったような気がした。
吉田はずっと洋楽に憧れてきた。吉田だけではなく、キャブズのメンバー全員が、アメリカに憧れてきた。アメリカ人のような音楽を作って、アメリカ人のように歌いたかった。さらに言えば、アメリカ人になりたいとさえ思っていた。
そして、『フィフス・ディメンション』という、まさにその夢が叶った作品を世に問えた。満足した。
しかしそれは――「アメリカの音楽を見事に真似した、でも決してアメリカの音楽ではない日本の音楽」に過ぎなかったのだ!
衝撃を受けた。動揺した。そして数日間、これからの音楽人生について、悶々と考え始めた。そして、ある考えが、むくむくと起き上がるのを感じた。
「アメリカへ行こう」
6.
1971年春、吉田は、アメリカのボストンにあるバークリー音楽大学に留学することを決めた。この大学は、ジャズやポップスに関する最高峰の教育機関を目指して、前年の70年に設立されたものだ。
渡米することを決めたのはもちろん、アメリカの大衆音楽の本質を理解するためだ。しかし、それはアメリカ音楽を猿真似するためではない。その本質を十分に理解した上で、アメリカ音楽を飲み込むのだ。まるごと一気に飲み込んで、日本人として世界に張り合えるような、新しい日本の音楽を作るためなのだ。
加えて、渡米への消極的な理由として、キャブズのメンバーとともに大麻取締法違反で逮捕されたこともあった。色々と煩わしい日本の音楽界・芸能界との関係を一旦清算し、きれいな身体になりたいとも思ったのだ。
渡米する前に、吉田は、キャブズのメンバーに対するメッセージとして、1つの曲を作った。
歌詞はもちろん日本語で。日本語、つまり吉田の思いとダイレクトにつながった母国語で、アメリカへの想いを綴ったのだ。
心から、死ぬほど憧れてきたアメリカの音楽、アメリカという国。でも、どれだけ頑張っても、日本人の自分には、「アメリカ人によるアメリカ音楽」を決して作れない。
そのアメリカは、東洋の小国=ベトナムに戦争を仕掛け、今日も途方もない数のベトナム人を殺戮している。さらにはベトナム人を殺戮するために乗り込んだアメリカ人も、何万人もが命を失っている。
あの、のっぽの黒人兵も、もしかしたら――。
物理的距離、心理的距離、文化的距離――自分とアメリカの絶望的な距離を確かめるために、自分はアメリカに行く。そして、アメリカを飲み込んで、日本人の音楽家しか作れない音楽をいつか作ってみせる。その音楽で、アメリカを、いや、世界をあっと言わせてやる。
そんな想いを歌詞に込めてみた。アメリカを「あなた」と言い換えて、一見ラブソングの顔付きにしてみたが、その実は、アメリカに向けたメッセージソングであり、日本人の音楽家としての決意表明だ。
タイトルだけは英語で『Far from you, Far from over』。「Far from you」=あなた(アメリカ)からの遠く離れていることと、「Far from over」=アメリカに対する自分の挑戦はまだまだ続くということ、2つの意味を重ねている。
7.
1979年のNHK『紅白歌合戦』も中盤に入ろうとするところで、この年の音楽シーンを席巻したバンド、ゴダイヴァが登場した。
ゴダイヴァは、帰国後の吉田がリーダーとなって結成したバンドで、前年の暮れに火がつき、そしてこの79年、名実ともにナンバーワンの人気を獲得したのだ。
キャブズは結局、吉田が渡米した翌年の72年に解散。『Far from you, Far from over』はキャブズのラスト・シングルのB面でひっそり発表されたのだが、そもそもキャブズの解散自体が大きなニュースにならなかったので、『Far from you, Far from over』も、世の中から黙殺された格好となった。
吉田は、バークリー音楽大学で音楽理論から演奏技法、そして音楽ビジネスを成功させるためのマーケティング理論を学んで帰国。帰国後、ゴダイヴァを結成し、この年、一躍時の人となっていた。
紅白に招かれたゴダイヴァが演奏するのは、この年の大ヒット曲『ビューティフル・ジェネレーション』。歌詞は吉田の手によるものではないが、歌詞のコンセプトは、若い時分に吉田が体験した、アメリカ、そして世界への想いが十分に反映されている。
――白い肌、黒い肌、黄色い肌、赤い肌。どんな人種であれ、どんな民族であれ、関係ない。私たちはみんな、美しい世代なんだ。
さすがの紅白は演出も凝っている。間奏に入ったところで、「ニューヨーク・ファイヤー・クラッカーズ」という、ダンスチームが入ってきて踊り始めた。ニューヨークの子供たちで結成されたチームで、当時「人種のるつぼ」と言われたニューヨークだけあって、色んな肌の色の子供たちが、自由に、そして個性的に踊っている。
吉田は、その姿を見ながら、胸が熱くなった。そして、あの頃にぽっかりと開いた心の隙間へのドアを、やっと閉じることが出来たと思った。
演奏が終わった。NHKホールは大喝采。言いようのない達成感に満たされた吉田は胸だけではなく、いよいよ目頭まで熱くなっていた。
ニューヨーク・ファイヤー・クラッカーズの子供たちは、ステージから楽屋に向かう出口の方に走っていった。出口の向こう側には、マネージャーだろうか、子供たちを笑顔で出迎える、のっぽの黒人がいた。
大舞台を終えた子供たちは異常に興奮している。黒人マネージャーを囲んで、子供たち同士、ぴょんぴょん飛び跳ねながらハイタッチをしている。
そんな子供たちに囲まれたのっぽの黒人マネージャーも興奮している。興奮して、踊り始めた。驚くほど長い両脚をバタバタとさせる見事なダンスを見せた――。
もしや、と吉田は思ったのだが、目頭が熱くなっていたのだから、単なる見間違いかも知れない。
でも、もうどうでもいい。前を向いていこう。音楽だけを信じてやっていこう。あの頃、心に取り憑いた複雑なあれこれ、心の隙間から戦争まで、ぜーんぶまとめて70年代に捨てていこう。
あと数時間で、80年代がやってくるのだから。
79年12月31日。バンドマンになってもう12年も経っているが、それでも吉田はまだ28歳。「美しい世代」の中心にいる。Far from over――新しい音楽の追求は、まだまだ続いていく(完)
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