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佐野元春を語るということ(シリーズ「50歳から評論家になる方法」-6)

『平成Jポップと令和歌謡』(彩流社)『EPICソニーとその時代』(集英社新書)のプロモーションで走り回る日々です。知名度が高くない評論家は、書くだけではなく、売るまでが書き手の仕事なのです。大変だ。

さて、10月21日木曜日、下北沢B&Bで行われた『EPICソニーとその時代』のオンラインイベントで、共演させていただいたダイノジ大谷ノブ彦さんが、佐野元春の、確か『SOMEDAY』の話の途中で、感極まって目に涙を溜め始めたのです。

一応、会を仕切る立場としては、ちょっと「おいしい」と思いなから、軽く茶化したのですが、でも本心として、とりわけ80年代の佐野元春を語っていて、感極まる感じは、実によく分かるのです。

同じく、佐野元春のオールドファンの方なら、この感じ、よく分かっていただけるのではないでしょうか?

あれ、つまりは、「つまらない大人にはなりたくない」というフレーズに代表される、彼の歌詞が描いていたピュアでイノセントな世界観に対して、ピュアでイノセントな虜(とりこ)となっていた、あの頃の自分と再会出来た感動だと思うのです。

「すべての『なぜ?』に いつでも答えを求めていたあの頃 いつか自由になれる日を あてもなく夢見ていた」過去について、少なくとも私は、大人になってから、少々遠ざけ気味に扱っています。

だって、ちょっと恥ずかしいですからね。

でも、遠ざけなくてもいいんじゃないか。ピュアでイノセントなあの頃の自分に誇りを持って、堂々と語ってもいいんじゃないか、特にもう、50歳を超えたのならば――大谷ノブ彦さんの涙を見て思ったのは、そういうことです。

「佐野元春の歌詞をうっとりと語って涙ぐむオヤジっているような」「いるいる!」という若者の会話に、にしおかすみこのように「私だよ!」と割り込めばいいのです。

イベントが終わってから思ったのですが、そう言えば、佐野元春の歌詞には、悪者が出てこない、圧倒的に少ないのではないでしょうか? そう言えば、「ここに嫌な奴は一人もいないぜ」というMCを聴いたような気もします。

憎悪の連鎖、フェイクニュース、デマゴーグ、詭弁、プロパガンダ、ごまかし、言うたもん勝ち。もうたくさんだ――。

大げさに言えば、この国をピュアでイノセントに、もっと清潔に洗練させるには、まずはオヤジどもが、ピュアでイノセントだった自分史と、恥ずかしがらずに、ちゃんと向き合うことではないでしょうか。

そしてそれが、実は「国のための準備」にもなっていくのではないでしょうか。

ますは佐野元春を語ることから始めよう。熱く、深く、腹を割って。たまには、ちょっと目に涙を溜めながら――。


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