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「評論」に必要なのは「批判」ではなく「比較」である(シリーズ「50歳から評論家になる方法」-7)

水道橋博士のメルマ旬報に寄稿している小説「ラスト・シングル~もしあの音楽家が最後にもう1枚、シングルを出していたら」の最新回=「シンディ&ザ・ロックス『ベイビー、ずっと抱きしめて』」の中に、こういうフレーズがあります。

なんでも、現在の音楽ライター業界は、「評論家」「批評家」ではなく、音楽家の単なる宣伝担当のようなものなのだという。一見、評論家文体で、意味のあることを書いているようでいて、その実は、作品を単に褒めちぎる、少しばかり倒錯した文章を強制されるらしい。

小説「ラスト・シングル~もしあの音楽家が最後にもう1枚、シングルを出していたら」

「こういうフレーズがあります」というか、私が「こういうフレーズを書いた」のですが、言いたかったことは、音楽だけでなく、カルチャー評論全体に、こういう環境が常態化しているということです。

ネットメディアが特にそうなのですが、放送・活字メディアも含めて、広告・宣伝・タイアップの大波が、評論という、元々ちっぽけだったジャンルを完全に飲みこんだと言えるでしょう。

すると、どうなるか。もうお分かりかとは思いますが、評論の対象となる作品への「批判」が出来なく(出来にくく)なるのです。当然です。作品の作り手側が、広告・宣伝・タイアップで深く関与している舞台で、話したり書いたりするのですから。

「評論不在の時代」に、我々は生きています。私は、ある考えを持って、「評論家」という古ぼけた看板をあえて掲げていますが、正直、賢い選択ではなかったなと思うことも多いのです。

でも、こうも思い直すのです――そもそも「批判」って最終目的だっけ?

音楽評論の最終目的(最近流行りのビジネス用語で言えば「パーパス」)を私なりに定義すれば、それは「音楽の新しい楽しみ方を広げること」だと思っています。つまり、評論とは、とびっきりポジティブな行いだと考えるのです。

分かりやすく言えば、「世の中には、みんなが知らない、こんないい音楽があるよ」と紹介することでもあり、さらには(どちらかと言えば、こっちに重点を置きたいと思っているのですが)「みんなが知っている、この音楽も、こう聴いたら、こんなに新しい楽しみ方ができるよ」を示すこと。

もちろん「批判」せざるを得ない作品もあるでしょう。ただ「批判」だけで終わると、上の最終目的に遠いし、何より読後感が気持ちよくない。ネガティブでザワザワさせるのは、一種の「文章芸人」だという自認識もある私にとっては、かなり不本意。

そこで、私が意識するのは「批判より比較」ということです。

「批判」せざるを得ない作品があった場合、それと比べて、優秀だ、上等だと考える作品を比較対象として置く。そうして論点を立体化しながら、その比較対象を通じて、「音楽の新しい楽しみ方」を示す。

具体的に言うと、『1979年の歌謡曲』(彩流社)という本で私は、『HERO(ヒーローになる時、それは今)』や『感触(タッチ)』『安奈』という甲斐バンドの3枚連続ヒットが、ほとんど同じコード進行(C-Am-F-G)で書かれていることを指摘した上で、こう書きました。

いや、コピーペーストのような曲だからといって、頭ごなしに批判するのもどうかと思う。同じコード進行、同じリズムパターンを自らの芸風として、ヒット曲を量産した音楽家は、洋邦問わずたくさんいる。ただ、仮にも75年の段階で、あの『かりそめのスウィング』を生み出したバンドである。もっとやり方があったのではないか。

『1979年の歌謡曲』(彩流社)

そうです。ここで置いた比較対象は、甲斐バンドの『かりそめのスウィング』です。それほど売れたわけではないのですが(5.4万枚)、1975年の段階で、作詞・作曲・編曲を手掛けた甲斐よしひろの才能が横溢する大傑作だと思います。

『かりそめのスウィング』という比較対象を通して、甲斐バンド/甲斐よしひろの音楽性という論点を立体化して、往々にして(特に1979年当時)『HERO』『感触(タッチ)』『安奈』で語られがちな甲斐バンドについて、「こういう楽しみ方ができるよ」という新たな視点を示したかったのです。

「比較」は簡単なことではありません。ある意味、「批判」より難しい。

「批判」対象となる作品の横や縦、ねじれの位置にある別の作品を、包括的に見る視野が必要です。また、それらを結び付けるデリケートな「文章芸」も問われます。もちろん自分も、完璧な「比較」が出来ているという自信など、未だまるでありません。

が、当世の「評論」に必要なのは「批判」ではなく「比較」であると思うのです。「評論不在の時代」に、「評論家」という古ぼけた看板を掲げるときに問われるのは「比較力」だと考えます。

55歳になって、ついつい「文句ジジイ」になりそうな自分がいますが、いやいや、ここは「比較ジジイ」を目指したいと思うのです。

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