見出し画像

勝頼の武田最大版図とは?

(2023年5月2日Twitterにて公開 6月2日改定)

武田勝頼の最大版図ってどこ増えたの??
甲越同盟により越後の領土割譲で日本海へ到達(根知城、不動山城)、信濃統一、東上野の割譲(ただし切り取り次第)、対北条戦により伊豆でじりじり領地を増やしました。
#その頃武田は
#その頃勝頼は
#ど家康
#勝頼の武田領最大版図とは

天正6年3月上杉謙信が死去し御館の乱(上杉景勝と上杉景虎の家督争い)が始まる。武田軍は上杉景虎を援護するため越後へ進軍。日本海まで到達している(盛信が根知城を制圧)。このままでは滅亡を免れない上杉景勝から同盟の申し入れがあり勝頼はそれを受け入れる。勝頼は天正3年長篠敗戦後に上杉謙信と和睦しており、謙信死去後、同盟継続の確認をしていなかった。勝頼は謙信生前に景勝が跡目である事を知っており景勝からの同盟申し入れは違和感のない事だった。
(*影勝の家督相続が内外に発表され、家臣からも起請文提出や祝儀の上納がされている)

天正6年4月から始まった御館の乱は、天正7年4月まで続いた。その裏で秘かに武田と北条の沼田争奪戦が始まっていた。沼田は関東から越後へ抜ける要衝の地であり、武田も北条も手に入れたい場所だった。御館の乱が起きた事で、それまで上杉配下だった東上野の国衆達は、景勝(上杉)に味方するのか、景虎(北条)に味方するのか選択を迫られる事になる。

北条が武蔵から北上し景虎援護のため沼田衆を味方にしようとしていた。しかしこの東上野は、長年上杉と北条が争ってきた土地である。上杉配下だった東上野の国衆達は北条配下に降る事を躊躇ったのかもしれない。そこへ昌幸(武田)の調略が入る。そのため多くの上野国衆が武田に帰属する事を選んだ。
(5月23日沼田領の原沢・田村・揚田・延沢氏ら六人衆が武田に従属)

しかしその頃の武田と北条は同盟関係にあったので、そこで昌幸が調略に乗りだし武田に引き込むというのはどういう事なのだろう?この件に関して勝頼の指示があったかどうかはわからない。しかし多くの上野国衆が武田に帰属する事を勝頼は喜んでいる。だがまもなくその調略に気づいた氏政から抗議の書状があり、勝頼が昌幸に調略の中止を求めている(天正6年6月29日)
(*沼田衆への調略を昌幸から提案され勝頼が承諾したのか?勝頼からの指示があったのか?…それとも、昌幸が独断で進めたのか?…武田に帰属する国衆に喜ぶ勝頼の書状があるが、それは天正8年の可能性もあるのではないか??)

 天正7年1月、表面的には武田北条間の関係悪化は見られない。しかし双方の不信は高まっており、2月には氏照が家康に太刀を送るなど北条が徳川に接近している。武田も沼津三枚橋城築城を開始するなど、関係悪化を見越して準備を始めている。

再び昌幸の沼田衆への調略が開始されたのは天正7年夏頃。甲相同盟決裂が決定的になってから。北條高広(厩橋城主)などが武田に従属している。天正7年〜天正8年春頃までの勝頼は、伊豆で領地を広げるも、駿豆国境では北条と遠州では徳川と、双方から交互に攻められ決戦を避けられ、ただ兵を疲弊させるに終わる。

その反面、東上野では昌幸の調略が進み、沼田城とその周辺を武田に帰属させる事に成功する。駿河遠江では領国を失うが、上野では版図を広げ、天正8年末頃武田の領国は最大版図を示す事になる。

そして残念ながら、この一連の事件とこの先にある事件が遠因で武田は滅亡へと向かう事になります。この先の話は気分が落ち込むのでまた今度。
詳しくはヒラマヤ先生の「武田氏滅亡(角川選書)」をお読みください

年表はこちら↓沼田の事 勝頼 武田領最大版図の件(年表)|諏方四郎 @suwasirou #note  https://note.com/suwakatuyori/n/n516f3a56d6a1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?