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沼田の事 勝頼 武田領最大版図の件(年表)

年表 *****ーーーーーーーーーー

【御館の乱から沼田城をめぐり武田北条決裂】
天正6年(1578年)
3月13日 上杉謙信 死去
 →御館の乱勃発 
 →上杉家臣、国衆たちが景勝(上杉方)と景虎(北条方)に分裂し対立
 →景勝と景虎の跡目争いが約一年続く

御館の乱が始まる前、東上野は、上杉領だった。
 →御館の乱の混乱の最中に、昌幸が東上野国衆への調略を仕掛け、多数の上野国衆らが武田に従属(5月下旬)。それに立腹した北条氏政から抗議を受け、勝頼が調略の中止を指示した(昌幸をなだめる勝頼からの書状は、天正6年6月29日)
 →沼田は信濃、武蔵から越後へ抜ける要衝の地。武田、北条双方の沼田への野心が明らかになる
 →氏政の武田への不信強まる

天正6年
8月 勝頼は景勝・景虎の仲裁に入り和睦させる
8月20日 景勝・景虎の和睦が成立
 4日後の8月24日 景勝・景虎ふたたび戦端を開く
8月28日 勝頼:徳川の侵攻に対抗するため甲府へ帰陣 →遠州へ出陣

天正7年(1579年)
1月 氏直が勝頼に年始贈答の書状を送るなど、この時武田北条間の表面的関係悪化は見られない
1月28日 北条氏照が家康に太刀・馬・青鷹を贈っている(戦北2047)
2月 勝頼:内藤昌明を箕輪城代郡司にする
  この頃、沼津三枚橋城築城開始?(〜9月完成)
4月24日 景虎自害 御館の乱終結 →上杉氏の弱体化 

7月 甲相同盟破綻
 → 駿豆国境、上野国で武田北条の戦闘開始
勝頼:伊豆で領地をじりじり広げる
 → 昌幸が、用土新左衛門尉(藤田能登守信吉、沼田城将)、金子美濃守(沼田衆)、小川可遊斎(小川城主)など上野国衆の調略を再開する(8月頃から)
8月 北條高広(北條芳林 厩橋城主)が武田に従属
  →北條高広に従い河田重親も武田に従属
8月 高天神城に兵員補強、兵粮補給(高天神城の補給は天正7年12月が最後)
9月 氏政:徳川家康と同盟  → 甲相同盟決裂
 家康:天正7〜8年 高天神城奪回作戦を本格化→ 高天神六砦を順次築く
 勝頼:佐竹と同盟の合意(8月には佐竹氏との同盟交渉が始まっていたと思われる)
*天正7年〜天正8年春頃までの勝頼は、伊豆で領地を広げるも、駿豆国境では北条と遠州では徳川と、双方から交互に攻められ決戦を避けられ、ただ兵を疲弊させるに終わる。

10月 甲江和与(織田と武田の和睦)交渉開始 (〜天正8年6月まで続く)
11月 勝頼:隠居?
   武王丸(13歳):元服(太郎信勝)家督継承(天正8年2月19日跡部勝資の手紙に「御隠居様」とある。この「御隠居様」は勝頼の事か?戦武3252号 丸島和洋氏)
  この頃、勝頼、信勝、北条夫人の3人の肖像画を描かせる?

【小川可遊斎(小川城主)】
天正8年(1580年)
3月 氏政は家康の仲介で信長とも同盟を締結する事に成功
 織田・徳川・北条同盟 → 勝頼包囲網
 徳川家康と北条氏政による武田挟撃開始
3月中旬 昌幸が小川可遊斎(小川城主)の調略に成功
 → 小川可遊斎の従属により孤立した猿ヶ京城も開城
4月上旬 金子美濃守(沼田衆)渡部左近允、西山市之丞の3人が城を脱出し名胡桃城へ入り武田に従属
 → 5月までに沼田衆の有力者のほとんどが武田方に転ずる
 → 武蔵(北条)から沼田城への補給を分断し沼田城の完全孤立に成功
・勝頼:駿豆国境に在陣
 4月 昌幸を上野に返し名胡桃城に軍勢を集中させる
・昌幸(名胡桃城)は、沼田城(氏邦)と後閑橋を挟んで小競り合いが続く

【用土新六郎(藤田能登守信吉・元氏邦家臣)が沼田開城】
天正8年
8月下旬 用土新六郎(藤田信吉)が昌幸の調略に応じ武田方に転じ、城内でクーデターを起し北条派を一掃。沼田城を武田に引き渡す
→ 以後昌幸が沼田城代となり沼田領を支配。矢沢、藤田信吉も在城
→ 勝頼が用土新六郎の求めを受け入れ、沼田城全域を与える
  用土新六郎は、勝頼より偏諱を承け『藤田能登守信吉』と名乗る
 「藤田」に改名し、鉢形藤田氏の継承を企図(北条氏邦に敵対)
  受領を「能登守」とし氏邦重臣猪俣能登守邦憲へ敵意を表す
・昌幸は藤田の説得工作を秘密にしており、知っていたのは土屋昌恒と跡部勝資のみだった

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勝頼の武田最大版図とは?
https://note.com/suwakatuyori/n/n854903e24f34

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