断片的走り書き[主体的に生きるのむず]

どこまで行っても、死ぬ気で生きるなんてことできそうにない。
茫漠の苦しみがある。漫然の苦しみ。虚無の苦しみ。「斯くあるように生きなくても良い」と感じながら生きることの苦しみ。自由であることの苦しみ。
「これしかない」と信じられること。「こう生きるしかない」と信じられること。学生時代の恋愛は「この人と結婚するんだ」と息巻いて繰り広げられる。そのエネルギーが羨ましい。「それを生きるという選択肢を選ばなくても良い」と感じることは、つまり「それは私じゃなくてもいい」と感じることだ。

結局のところ、アイデンティティーの問題なのだろうか。
アイデンティティーとは「こうであるとして生きる」ということだ。
自分から分離可能だと認識している要素をアイデンティティーだとは感じない。
生まれによって人生が規定される時代では「家」もアイデンティティーの一部だった。終身雇用が当たり前の時代なら「会社」もアイデンティティーの一部だった。
逆に言えばアイデンティティーとは「こうであるとして死んでいくことを受け入れる」ということだ。分離不能なモノを抱えられなければ、茫漠の苦しみからは逃れられないのだろう。
これまでは、分離不能なモノとの出会い方は受動的であったように思う。ミギーが身体に入り込んでくるみたいに。でも、自分からミギーを飲み込むようなことをしても良いのではないか…と思う。不可逆的で、致命的な何かを飲み込むということ。

しかしここまで書いてきて思うのだが、「あなたとじゃなくてもいいな」「この会社じゃなくてもいいな」「この生き方じゃなくてもいいな」としか思えないというのは、結局のところ「自分はあなたといたい」「自分はこの会社にいたい」「自分はこの生き方をしたい」という意志が欠如しているということであって、その意志の欠乏は究極的には「生きてても生きてなくてもどっちでもいい」というところに行きかねないのではないか。いやでも、感覚としては「どっちでもいい」なのではなく「もっといい人がいるはず」「もっといい会社があるはず」「もっといい生き方があるはず」ということな訳だろう。ポジティブに聞こえなくもないが、青い鳥を探しているだけということか。

選択肢の問題?マッチングアプリで考える。常に、自分にとってもっと良い人がいるかもしれないという可能性を意識させられる。全員をしっかり吟味するなど不可能。逆に、相手にとっても自分より良い人がいる可能性。その中で、自分にとってはもっと良い人がいるかもしれないが、相手は自分しかいないと確信している状況。場合によってはホラーだが、双方のどちらかの状況をもとに、生き方を限定していくことは可能かもしれない。普通に恋して大人になって普通に暮らす選択肢もありだよなあと思っていても、めちゃくちゃ求められたら大変な人生でも良いかなと思える感じはする。でもそんなことは殆どの人間には起きないし、求められることを目指して努力するというのは、何か間違っている気がする。

①不可逆ではない選択肢を、不可逆で不可分なものとして生きる。
②暇を潰すように軽やかに生きる。何も選ばずに生きる。
③分離可能な選択肢を無数に引き受ける。ステッカーだらけのギターケースのように。

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言い訳でしかない。
単純に、自分が甘えてきた人生を小難しく味わい深く説明したいだけの無駄な時間。
信頼を得るための努力。他者に対する誠実さ。
結局理屈で抽象的に考えたところで、今目の前のここにいる人たちに「カッコいい」って思われたいし、そう思ってもらうために頑張るというのはイメージしやすい。

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わかった。そもそも間違ってるわ。
現実は自分の外側にあり、その現実に自分がどれだけ合致するか、という軸で物事を考えていた。そうじゃなくて、自分が現実を作るのだ。自分のためのスペースなど家庭を除けば社会に元々存在するはずがないのだから、自分で切り開く他ない。アイデンティティーは外部から持ってくるものではない。自分で作り上げていくものだ。

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