さらば子宮よ永遠に。①

 気が付けば年末、大晦日である。
 私は今年の夏、子宮筋腫で子宮を全摘した。その記録を何かしらの形で残しておきたいと思っていたが、結局今の今までさぼり続けてしまった。
X(旧Twitter)でバズるレポ漫画のように漫画を描こうとしたが、私は残念ながら神絵師ではないので無理だった。漫画って描くのめんどくさいし…
なので字で残すことにする。暇つぶしにでも読んでもらえると嬉しいです。
 また、同じ症状、体質で悩んでいる人の通院のきっかけになれば幸いです。

※婦人科系の話なのでどうしても生理の話になります。苦手な方はご注意。

手術に至るまでのあらすじ

 大前提として、私は子どもの頃から生理通が重かった。
 中学生の頃に初潮を迎え、すぐに生理痛に苦しむことになった。痛み止めがなければ酷い腹痛で動くこともままならず、勿論授業どころではない。高校生になって痛み止め薬を持ち歩くようになったが、忘れた時は地獄を見た。
 また、痛み止め薬が家にない場合は床を転げまわりのたうち回り、痛い痛いと呻くだけの肉塊になった。母が薬を買いに行ってくれて、父や兄が鬱陶しそうに私を見て「そんなに痛いなら布団で寝とけ」と言ってきて「こんな痛みで寝られるか!!!!!!」と怒鳴り返したこともある。父はドン引きしていた。
 勿論成人してからもひたすらこんな調子である。私にとって生理と生理痛と痛み止め薬は完全に同一の概念であり、痛みのない生理など存在しなかった。ただ、経血の量は(おそらく)人並みで、2日目が多めに出るものの、後は少しずつ量が減って生理が終わる、という普通のものだった。
 とは言え、生理痛に苦しむ私の様子が尋常ではないと母が心配し、高校生の頃に近所の婦人科に検査をしてもらいに行ったことがあった。その時は何も異常はなく、体質の一言で片付けられた。
 「最近、若い人に多いんですよね、生理痛が酷いっていうの」と言われたのを覚えている。その後母に「あんたが好き嫌いして野菜食べないから、それでじゃないの?」と言われたことも覚えている。そんなことで生理の重さが決まってたまるか。

 そんな調子で、何年も生理と同居して生きてきたわけだが、いつの頃から経血の量が増えてきた。
 会社勤めをしていると、学生の頃のように自由なタイミングでトイレに行くことが難しくなる。特に当時の私の仕事は作業時間を急ぐものも多く、また一度作業を初めてしまうと区切りのいいところまで終わらせなければ手を止められないこともあり、この作業をしている日に生理が、特に出血量が多い日が被ると大変だった。
 あ、出る、と体感で分かるのだ。そうなったらもう止まらない。尿のように下腹部に力を入れて我慢することも出来ないので、ただ液体が股の部分にどろどろと流れてくるのを顔を顰めて受け止めるしかない。もちろん下着もズボンも貫通している。当時の私の作業着は黒いズボンだったため、赤い血がしみ出してもバレにくかったのは非常に助かった。とは言えこのままでもいられないため、作業の手を止められるところまで進んだら急いで更衣室に駆け込んで、ロッカーに常備している着替え用の作業ズボンの予備と常備しているサニタリーショーツを掴み、トイレに籠って汚れたものを始末し、着替えてまたロッカーに戻って汚れたものを袋にしまい込み、急いで仕事場に戻る。これが殆ど毎月の出来事だった。
 仕事中ではなくても、突然大量に経血が漏れてしまうということが多発するようになり、私は生理になると鞄に大量のナプキンを持ち歩き、ロッカーには着替え用のサニタリーショーツとやはり大量のナプキンを備え、家ではおむつタイプのナプキンも使うようになった。量が多いことが予想される日は、夜用の大きなナプキンを付けてみたが、漏れる量があまりにも多いと経血がナプキンが陣を張っている股の前後ではなく、ナプキンの両脇から零れてしまうのだ。夜用ナプキンは寝ている状態で使用されることを前提とした形なので、立った状態で使用するのでは本来の成果が発揮されないのだと思う。
 色々試した結果、ナプキンとタンポンの同時使用が一番安定した。タンポンだけでは吸い切れない量でも、ナプキンが溢れた分の血を受け止めてくれるため、非常に仕事がしやすくなった。

 この状況を、私は特に異常だとも思っていなかった。じわじわと変化したこともあり、こんなもんなのかな、と受け止めていた。
 きっかけは忘れたが、フォロワーで仲のいい人と通話をしていた際に、話の流れで生理の話になり、私は笑いながら上記の状況を話した。いや~大変なんですよ~でも自分流の対策見つけたんで、めっちゃ捗るようになったんですよね! と話していたら、相手が「それは…一度病院に行った方がいいですよ…」とドン引きしながら言ってくれた。
 彼女いわく、ナプキンとタンポンを同時に使わなければいけない量の血が出るのはやはり病気を疑った方がいい、とのことだった。ここで指摘されるまで、私は自分の生理の状況に一片の疑いも不安も抱いていなかった。でも、言われるとそうかも…病気なのかな…と心配になってきた。
 もし何かしらの病気が理由でこうなっているのなら、治療や投薬をすれば毎月の整理が楽になるかもしれない。そう思ったら、病院に行くことを躊躇う必要はなかった。

婦人科通いの日々

 そしてすぐに婦人科で見てもらい、結果的にこの時点で子宮筋腫が二つ見つかった。サイズは5センチほどだと言われた。これは筋腫としては大きい方らしいが、自分ではあまりピンときていなかった。
 ただ、この時点では悪さをするものではないと説明され、薬でこれ以上筋腫が大きくならないようにしていきましょう、と説明された。手術するほどではなかったのか、と安心し、私は先生の指示通りに投薬で治療することになった。
 ここから数年間の話はざっくりとかいつまんで書く。
 最初は低用量ピルを処方されたものの、効き目があまりなくすぐ次の薬になった。次は点鼻薬という鼻の奥にスプレーで噴霧する薬で、毎日三回鼻にブシュッとやらなければいけなかった。鼻の奥に噴霧しないといけないのだが、鼻の粘膜に付いた薬が垂れて喉の奥にまで届くと、薬の何とも言えない味が広がっておえぇ…となったことを覚えている。
 これは生理を止める作用があり、これを処方されている間は生理が来なくなった。非常に快適で、生理がないことでこんなに楽な日々なのかと感動した。しかしながら半年分しか処方できないとされ、半年使ったら半年は休薬期間として点鼻薬は出してもらえなくなるのだ。子宮筋腫は生理と共に大きくなるため、筋腫の成長を止めるためには生理を止める必要があるのだが、生理を止めると女性ホルモンが出なくなるため、骨密度が下がり骨折しやすくなるというリスクがあるらしい。閉経後の中高年の女性に骨粗鬆症が増えるのは、この女性ホルモンの現象が原因なんだとか。
 ぶっちゃけ骨折してもいいから生理がなくなる方がいい、とすら思っていたが、勿論そんな意見が通るわけがないので素直に休薬期間を設けて半年ぶりの生理をやりすごし、点鼻薬の再開を待った。休薬期間は慰め程度の漢方薬を処方されていたが、当然そんなもので生理痛が軽くなるわけがなく、また痛み止め薬に縋りながら生理をやり過ごした。
 点鼻薬が途中でレルミナという錠剤に変わったが、これも生理を止める薬であるため半年しか処方できないという縛りがあった。それ以外では点鼻薬より扱いやすく、値段がクソ高い(一か月分で約9千円…)ことを除けばとても頼りになる薬だった。

そんな感じで、大体五年ほど投薬しながら筋腫と付き合ってきていた。定期的にエコー検査で筋腫の様子を確認していたが、筋腫はじわじわと大きくなっていき、また数が二つから三つに増えていた。やはり半年は生理がある状態では、筋腫の成長は止められなかったようだ。
 その頃、半年ぶりに生理になると、少しずつ痛みと出血量が増していっているような気がした。生理周期も安定せず、一週間以上続くときもあれば終わって二週間後にまた生理が始まることもあった。それでも、毎月の通院で報告しているし、定期的に検査をしているのだから大丈夫だろうと思っていた。
 おそらく、実際に大丈夫だったのだと思う。この頃の私の生理状況は非常に安定していた。このまま薬で筋腫を抑えながら閉経を迎えるまで続くのだろうと思っていた。

急転直下

 そして2023年1月、私は仕事を辞めて、関西から地元である鳥取に帰ってきた。理由は割愛するが、暫くは田舎でのんびりニートをしつつ、夏頃には転職して新しい仕事に就けたらいいな、と漠然と考えていた。
 そして当然筋腫の治療は続く。地元の婦人科を改めて受診し、今までの治療の流れを先生に説明した。新しい主治医となる先生は、「レルミナより安価で体にも優しいジエノゲストという薬があるから、これを試してみよう」と提案してきた。
 レルミナは毎月一万近くかかるため、これが安く済むならその方がいいに決まっている。私は快諾し、ジエノゲストを処方してもらった。これが2月頃の出来事である。ここから私の体調に変化が生じた。
 薬を飲み続けて一か月たった、3月末。生理が来た。ジエノゲストは生理を止める薬だが、飲み続けて一か月では効果が出ない場合もある。だいたい二か月後には生理が止ると先生も説明していたため、特に心配はしなかった。
 一週間後、生理はまだ続いた。
 二週間後、まだ終わらない。あら??と思いつつ毎日ナプキンを付けていたが、結局4月は毎日生理状態だった。しかも生理痛もセットで起きるし、謎の微熱までおまけでついてきた。ニートで家にいられるのをいいことに、私は4月の殆どを布団で過ごした。とにかく痛いし、熱でだるい。2か月は持たせるつもりだった痛み止め薬をすぐに飲み切り、追加で買いに行った。その時、同じく2か月分はあったであろうナプキンの常備も使い切ったため、大量に買い物かごに放り込んだ。
 ジエノゲストってこんなもんなの?と思いつつ、一応処方された分は全て飲み切った。5月の連休が明け、次のジエノゲストをもらいに婦人科を受診し、先生に「生理はどう?」と聞かれたので「4月は毎日出血してました」と答えた。
 すると先生は「そりゃおかしい」と言い出し、一度ジエノゲストは中断することになった。どうやら私の体には合わない薬だったらしい。おまけに毎日出血していたとなると貧血を疑われ、血液検査をすることになった。小さな病院なのですぐには結果が出ず、数日後に電話で検査結果を聞いたところ「ヘモグロビン値が6.5なので、重度の貧血ですね」と言われた。成人女性の平均値が11らしいので、私は半分になってしまっていたのだった。
 そういえば、連休の間にウォーキングで30分ほど歩いた時、帰宅してから息切れが酷くて10分以上ぜーはーぜーはーと言い続け、椅子から立ち上がれなかった。運動不足だなぁ…と思っていたが、あれは貧血の症状だったのね…

 ということで、貧血への処置として3日に一度、鉄剤を注射してもらうことになった。それを1か月ほど続け、何とかヘモグロビン値を平均値まで戻した。その間、なるべく安静にして極力大人しく過ごして、と言われ、私の引きこもりが加速したのであった。ニートだったからよかったものを、仕事をしていただどうなっていたんだろう…

 6月になり、次はリュープロレリン注射というのを提案された。これも生理を止めるための薬だが、皮下注射で体に入れるものである。腕でもいいらしいが、私は腹に注射された。鉄剤注射の終盤とリュープロレリン注射の序盤が被っていたため、病院の処置室のベッドに腹を出して寝て、腹には先生が皮下注射を、腕には看護師さんが鉄剤注射を同時に行うというトンチキな光景が展開されたりもした。
 結果だけ言うと、結局これも効果はなかった。生理は止まらず、4月頭からずっと私は出血と生理痛が日常化していた。不正出血と呼ぶべきなのだろうが、出血量があまりにも生理と変わらないのと痛みがワンセットで発生するため、私にとっては毎日が生理という状態だった。ナプキン1パックを2週間で使い切るため、生理用品を何度も買いに行ったし、サニタリーショーツ以外の下着を履く日が皆無になった。手持ちのサニタリーショーツでは回らなくなり、Q10で6枚入りの安いセット商品を買い、それを手持ちのショーツと合わせてローテーションで穿いていた。
 前触れのない大量出血も頻発し、タンポンとナプキンの同時使用でもタンポンを貫通してナプキンにまで大量の経血が流れ込み、そのままナプキン脇から溢れ出るという地獄のような状態になることも多々あった。いつどのタイミングで大量出血が起きるのかが分からないため、私は出掛けることが億劫になり尚のこと引き籠りになった。まあ元々引き籠り大好きなので、それは苦でも何でもなかったわけですが…
 こんな状態なので、せっかく戻ったヘモグロビン値もまた低下して貧血に戻り、鉄剤注射が再開されたりもした。リュープロレリンは3回、3か月ほど打たれたが、結局一切の効果が得られなかった。

 この辺りになると、流石の私も「病院を変えた方がいいかもな…」と思いつつあった。
 上記の流れでは省いてしまったが、5月頃の受診の際に「こんなにしんどいなら、いっそ子宮を全摘してしまいたいんですがそれはダメなんですか」と言ったことがある。
 子宮全摘を考えたのは、この時が初めてではない。実は関西にいた頃かずっと考えており、あわよくば全摘して楽になりたい、という考えは何年も前から持っていた。
 しかし、関西での主治医の先生には「臓器を取るということはとても影響が大きいことだし、やり直すこともできない。今のあなたの子宮は悪い状態ではないし、取るほどのことではない」と言われたし、長年私の状況を見てきた友人にも「気持ちは分かるけど、悪くなってない臓器を自分の希望だけで取るということは出来ないよ」と説得され、渋々諦めていた。
 だが、4月から急激に体調が悪化し、毎日痛む腹を抱えながらトイレを往復し、またしても「全摘してしまえばこんな思いをしなくて済むのに…」という考えが頭に浮かび出した。そして前述のように、今の主治医にに伝えたわけだが。
 男性の高年の先生は「そんなあなたね、簡単に取れるものじゃないんだからw」と半笑いで私の話を流した。関西にいた頃の主治医は中年女性でサバサバとしたおばちゃん先生だったが、私の全摘希望の話を笑ったりはしなかった。
 私は、この対応に地味にショックを受けていた。私にとって子宮全摘は決して勢いの思いつきで言ったものではなく、長年の苦しみから考えに考えた末の選択肢であり、周りが止めているからしていないだけで私自身はもはや子宮に何の未練もなかった。それを、この先生は笑い飛ばしたのだ。
 この辺りで、私はこの先生に対しての不信感を抱くようになった。これ以外にも、私が体調の変化を伝えても「まあそれは生理の時によくあることだし」という感じであまり真摯に対応してくれなかった。毎日37℃前後の微熱が出るということも相談したが、これもあまり真剣には聞かずに流された。
 それもあり、このいつまでもよくならないのに同じ治療を続ける先生を、私は信用できなくなってしまった。先生の対応に間違いはなかったのかもしれないが、先生に不信感を抱いてしまうともうだめだった。些細な体調の変化も、どうせ流されるだろうし…と思って伝えなくなる。親に体調を聞かれて説明した際に「それ先生に言った?」と聞かれて、そういえば言ってないな…と考えてから「でも言ったところで…」と考えている自分に気づき、この病院に通い続けるのは限界かもしれないと思うようになった。

 6月中旬、意を決して私はセカンドオピニオンをしたいと先生に伝えた。あくまで「自分の子宮の状況をきちんと把握したいから」という体で話し、先生がもう信じられないんです、とは言わなかった。
 先生はあっさりと了承し、近くの総合病院の婦人科に知り合いの先生がいるから、そこに紹介状を書いてあげると言ってくれた。思ったよりすんなりと病院が決まり、心底ほっとした。
 当然この頃もまだニートをしていたため(一応弁解すると転職活動自体はしていたが、体調がぐっだぐだすぎて全く捗っていなかった)、一番早い日程で予約を取り、すぐに新しい主治医となる先生に診察してもらい、MRIにて子宮の中を詳細に検査してもらった。
 そして発覚したのが、有茎粘膜下筋腫というもの。普通の子宮筋腫は子宮の壁(これが筋肉で出来ている)の中に発生するもので、基本的に良性の腫瘍であるが、粘膜下筋腫は子宮の内側、壁の外に発生するものであり、これがあると生理痛と経血量が酷くなる、とのことだった。
 私の子宮には、この有茎粘膜下筋腫がドカンと一つある他、通常の筋腫が大小合わせて10個以上発生していた。私が把握していたのは4個までだったので、これには流石に腰を抜かしそうになった。どうやらエコーでは見えにくいものもあるらしく、また小さなものは筋腫と見なすかどうかが人によって判断がまちまちということもあるようだ。
 総合病院の先生は「ひとまずこの結果をあちらの先生に送りますから、この後の治療はあちらで相談してくださいね」と説明し、私は結果を引っ提げて元の病院に戻っていった。
 私の精密検査結果を見たおじいちゃん先生は「うーん、これは…早めに手術をした方がいいですね…」と真剣な顔で言ってきた。

 だから言っただろうが~~~~~~~!!!!!あの時全摘しておけばもっと早かったのに~~~~~~!!!!!!

 と叫び出したい気持ちを私は必死に抑えた。私に理性がなかったら木の枝を揺らすなどの激しい威嚇行為に出ているところだった。
 いや、私がセカオピを言い出すまでが長かったのもよくなかったのだろう。もっと早く決断いていれば、もっと早く手術に踏み切れただろうに。ジエノゲストは仕方ないにしても、リュープロレリン3回は本当に無駄だった。あれ一回5千円するのに…

 かくして、私の子宮筋腫の手術が現実味を帯びてきたのであった。

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