自己決定権への疑問。

大学院で勉強したいことを180°変えてしまったものの全然後悔しておらず寧ろ勉強に身が入るようになった今日この頃。

と言いつつ、未来の話をするのは苦手である。親をはじめ親族たちにずっと否定されてきたので、話しても無駄だし疲れるし……と避けている節がある。

ここからは自死の話、あとものすごく小難しい話が含まれるので苦手な方はぜひブラウザバックをお願いします。

勉強していく中で見つけた話をひとつ。
刑法202条には自殺関与罪と同意殺人罪というものが規定されている。
刑法において自殺は不可罰。つまり罰されない。でも、自殺に関与した人は処罰される。
まぁ確かに。自殺に関わったということは人を殺すことに加担した、ということになる。だから罰される。言葉通りの理解は可能だ。

刑法学では、自己決定権の内容に「主体の生命の処分(=自殺)」は含まれていないらしい。判例でもその理解がされているそうだ。

私はこれを理解出来なかった。
「自分の死ぬタイミングくらい自分で決めたって良くない?」と思った。
人間は良くも悪くも、そして大なり小なりあるとは思うが、親のエゴで産まれてくる。
生まれるタイミングは自己決定権に含まれていないのは分かる。こればっかりは自分で決められないし、帝王切開ならいつでも産めるということを出産経験者から聞いた。

でも、どうしても納得できない。
自分の死ぬタイミングはどうして自己決定権に含まれないんだろう、と。
責任無能力者のような状態ならまだ理解出来るにしろ、自理弁理能力がある人間が死ぬタイミングを選ぶことくらい自己決定権の範囲に含んだって良いじゃないか。
と思う。

個人的法益(ここでは生命)を守るのが刑法の目的だから?
だとするとそもそも刑法で生命を守ることそのものが違憲になるのでは?
と思う。

まぁでも、「人を殺してはいけません」という法律は無い。世の中上手くできてるなぁ、と思う。
例えば刑法199条では「人を殺した者」という主体が明記されている。その構成要件に当てはまる人が処罰を受ける。だから、別に殺すこと「そのもの」を処罰対象にしていないんだよなぁ、と思うと刑法の世界奥深いな……なんて感じる。

生命は保護法益になりうるのだろうけど、自己決定権で処分することくらいは許して欲しい。
死こそ救済だという人はたぶんそれなりにいる。私もそう。

人を守るという正義から逸脱した人間だっているんだよなぁ、だから集団で集まって命を絶つ人もいるんだろうな。

そんなことを思っていた。刑事法学ってよく出来てる。

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