"見る"とは何か?

自分の属しているトーテムは何なのか。

大事そうなことはピンくるが "理解"というハードルが高く、自分の中に落とし込めない悩ましさ。

集めるのは得意なので、できぬ理解は諦めてそれに徹することにします。

" これでいいのだ "








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第四章、トーテム等の関連要素(まとめ)

 弥生人が何を祭り、各種伝承の中で何と表されているか、可能性があるものを整理すると以下のようになります。すべての民族の根底に蝶、蛇、瓢箪があります。
1、呉(韓人=カラヒト、姫姓)
 
呉人が日本に持ち込んだ神祇は、周から受け継いだ后稷(農業神)と后土(土地神)で、后稷は稲荷神に姿を変えて、現在でも盛んに信仰されています。后土は、難波の生国魂神社(難波坐生国咲国魂神社二座)の生島神、足島神というのがそうでしょう。島を生む神、島を足す神という名ですから、土地神と考えるのに不都合はありませんし、長野県上田市にある生島足島神社(延喜式名神大社、信濃国小県郡)の神体が、砂利を敷き詰めた地面そのものであることもその証しとなります。敦賀の気比神社では同じ神を土公(后土のアルタイ系語順)としています。
 農業神、土地神は、どちらも呉と呉系楚(堂谿氏)で、同一神格が二重(保食神と倉稲魂神/生島神と足島神)になっており、これは延喜式の宮内省に坐す神、韓神社二坐と同じ形です。倭人伝の狗奴国は、后土そのものかもしれません。
 また、比売許曽神社のアカルタマ姫も呉人の神です。赤い玉という名は、朝日、夕日を思わせますし、虹のように輝く太陽光線が女性の陰部に射して生まれたという記述もあって、アカルタマ姫は太陽神とすることができます。
神の伝承は大阪に最も濃厚で、ここに呉人(韓人)の中心国が存在したようです。
 この一族は、子孫繁栄、豊饒を願って、精液を連想させるヌルヌル、ネバネバ、ツルツルの粘液質を尊びました。その中でも鯰神が最上だったらしく、これが民間信仰となって、シャクジン、シャゴジ、サゴジなどの名でわずかに残っています。

 「久方の天の探女の石舟の泊てし高津は浅せにけるかも」という角麻呂の歌が万葉集に見られますが、難波の高津(コウヅ←コウドゥ)には、天の探女の伝承も残っていました。
サグメがサク、シャク(=鯰)に関係することは明白で、アマノジャクへと転訛しています
この神は高天原の天神を裏切った天の若日子の従神とされていて、地位も低く、印象も残りませんが、逆しま事を言って災いを招く神です。これも呉系の神と分類できます。
 「記・紀」神代の天の若日子の存在理由がわかりませんでしたが、呉人の入れ知恵で邪馬壱国側に寝返った縄文人がいたことを語っているのかもしれません。
 各地に、米と竹筒を入れて粥を炊き、竹筒の中に入った米粒を数えて吉凶を占うという「粥占い」を伝えている神社があります。
これも竹や粘液質を尊ぶ呉人の習俗に由来すると考えられます。「三重県下の特殊神事(長谷川利一篇、三重県郷土資料刊行会)」によれば、粥占いを伝えているのは、桑名郡楠村の楠神社、三重郡内部村の小許曽神社、河芸郡稲生村の伊奈富神社、栄村の酒井神社、河曲村の菅原神社接社、飯野神明社となっていて、呉系の地名としたクス、コソに結び付いていますし、サカも坂田金時、八坂など呉系楚につながっていました。したがって、イナ、イイにもその可能性があります。
 呉人の主食は、「呉語」に記されているように赤米だったのでしょう。主食が白米の粳米に代わってからは、祭りの時にのみ、小豆を入れて赤くした糯米(赤飯)を使用する習慣となるのではないでしょうか。ネバネバの餅もこの民族が好んだものとすることができます。勾踐時代の越は粟が主食だったようです。江淮の間という平野部に強制移住させられて、その地に適した白米の稲作に転換したのかもしれません。
 呉人は説話、伝承の中では蜈蚣、鯰、狐、雉、鯉、竜、馬、大人などと表されています。象徴的な武器は斧、刀です。倭国大乱で滅亡したため、有力氏族は見当たりません。
 民族的には羌人(周の太伯、仲雍)が上位に入り、ワラと自称するようになったミャオ族と考えればいいようです。言語はベトナム語などに近いモン・クメール系と考えられます。

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2、楚(呉系楚人、秦人=ハタヒト、狛人=コマヒト、堂谿氏=姫姓)

 秦人(呉系楚人)の神は、須佐乃男(牛頭天王)、五十猛(イタチ?)、ツヌガアラシト(牛)、少彦名(小人)、天之日矛(太陽)、月読(月、暦=太陰暦)、大山咋(咋=虁=牛+猿+蛇)、猿田彦、天鈿女(猿)、迦具土(火)、宗像三女神(航海)、石拆、根拆(雷)、石筒之男(隕石)、闇淤加美(山椒魚)、竃神(奥津彦/大戸姫は越系の竃神)、菟神(ウサギ、目が赤い)などで、金山彦も含まれていますから、この一族が日本に青銅器の製法をもたらしたと考えられます。後、同族(B・C39年以降ではないか)が製鉄を伝えた模様です。
 韓(呉)+園(楚)という民族なので、韓鍛冶(カラのかぬち)というのが該当します。波迩夜須毘古(ハニヤスビコ)、波迩夜須毘売も楚人の神で、こちらは土師器と土師氏に結びつきます。他、倉稲魂神(后稷)と足島神(后土)がありますし、八幡神も秦人の神です。
 また、木地師の作るお椀や箸につながるものもこの人々で、木地師の始祖とされている惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子ですが、母が紀朝臣名虎の娘なので楚と結びつけられています。出家し、山城国愛宕郡小野郷に居住して小野宮と号しました。赤城の蜈蚣神と日光の蛇神との戦いで、日光側についた小野猿麿は、越系(和迩氏系、文・漢人)の小野氏ではなく、この楚系(秦系)の小野宮に由来します。木地師の本拠は近江の愛知郡小椋とされていて、これは、猫の島(近江)の蛇を助けて蜈蚣を討ち、越(加賀)から近江に移住してきたという楚人(秦人)の居住地に重なります。付近に秦荘町という地名が見られるのもその補強材料です。小椋、小倉、大倉などを姓としたということで、福岡県小倉市なども秦系の地名と考えて良いようです。そして、ここは同じ秦系に分類した岡県主の勢力範囲でもあります。
 楚に関連するものとして、小人(少彦名)、木地師のお椀(御器)、箸(土師)が揃って「一寸法師」が出来上がります。御伽草子では針の刀と麦藁の鞘(ムギワラは中空のストローになる)を持ちますから、針とワラにも関係しています。麦もノギが長く針に近い。
一寸法師(秦人)は鬼(越=邪馬壱国)を退治し、手に入れた打出の小槌(*)で体を大きくして、その後、貴族となって栄えるのですが、これはずっと後の邪馬壱国滅亡後の話になります。一寸法師の根底にも藤原氏の歴史が見え隠れするようです。《*小槌/大黒=大国主の持ち物でもある。越王は椎髻=槌型の髷をする。》
 針と言えば、尾に針を持つ蜂が連想されますが、秦河勝が建てた寺は蜂岡寺といいます。八俣のヲロチも尾から刀を出し、地震鯰も尾に刀を持つ形に描かれる場合があります。八幡もハチマンと読めば蜂と蛮(=蛇)を含むし、ヤハタと読めば矢と秦を含む。式内社の刺田比古神社が和歌山市中心部(狗奴国)にある。こういう具合に針は全て秦系要素に絡みついています。播磨も針間で、元々は秦氏が主導権を握って開拓した土地なのでしょう。北斗の第七星は搖光と言い、また、破軍の剣鋒(破軍星)とも呼ばれ、北斗七星は尾に刀を付けた形に描かれます。これは八俣のヲロチ、地震ナマヅと共通しますから、北斗を祭る妙見信仰も新羅(弁辰)から渡来したと伝える楚人(呉+楚)由来のものです。熊本県八代市の八代神社(妙見宮)の伝承は、新羅と妙見信仰の結合をそのまま伝えています。
 火明命後裔という尾張氏は、楚人(秦人)の「尾+針(=蜂)」という地名が先に有り、越人が地名を名乗って首長になったと考えれば整理できます。もちろん、尾針の妻(怪力の小女)を迎えるという形でです。
 霊異記、今昔物語の尾張愛智(アユチ)の小女(姫氏=堂谿氏)は麻織物にすぐれていました。麻は呉楚に結びつく言葉で、魏志弁辰伝の「広幅の目の細かい布を作る。」という記述は、辰韓の縑布(カトリ絹)とは区別されていましたから、麻織物を意味するのでしょう。したがって、麻(アサ)を「ヲ」というのは越語と考えられます。
 針からは松の葉を連想できますが、これは秦氏に松尾神社があることから秦系要素と確認できます。この一族はチクッと刺すものにこだわりがあり、橘、虻などもその要素として加えられます。したがって、末盧国(松浦)も楚人の国名ということになりそうです。
 秦人(楚人)に分類した、中臣氏、津島氏、壱岐氏は卜部という占いに係わる一族ですが、ウラは民族名から派生した呉を意味する言葉と分類しました。占、卜の読みと一致しますし、呉人(堂谿氏)の浦島子と楚人の亀姫という浦島伝説の解釈とも全く矛盾がありません
卑弥呼の弟、大吉備津比古に敗れた吉備冠者もウラ(温羅)です。したがって、反対側の表、面(オモ)は越系要素に分類できます。
「重い」もそのようです。呉楚系は反対の「軽い」があり、民族名カラや小人のスクナビコナにつながります。

 秦系の有力氏族としては、紀氏(臣)、蘇我氏、葛城氏、平群氏、巨勢氏等の武内宿祢後裔氏族、紀氏(直、国造)、秦氏、中臣(藤原)氏、宗像氏、土師氏、毛野氏、岡県主、伊都県主、津島直、壱岐直などが挙げられます。息長氏も邪馬壱国の王族が上位に入っていますが、武内宿祢後裔氏族と同様、秦系と扱われています。鴨氏もここに加えるべきでしょう。
 権力争いに敗れて楚に逃れた呉王の弟、夫概が堂谿、元の房子国に封じられて堂谿氏となったもので、「呉+楚」という形です。その地には呉房という別名があり、ここから牛蒡につながります。槃瓠に首をかみ切られたのは犬戎の房王ですから、房という犬トーテム、長身の羌族系民族が最下層にあり、上位に楚人の本体、ビやセン、タイと表される民族が入り、最上位に呉の一族が入ったという民族構成が考えられます。
 秦の始皇帝に敗れ、楚の各地から集められた部族が遼東半島で雑居していたと思えますから、実際はもっと複雑でしょう。しかし、日本の伝承にはミャオ族の要素が濃厚に現れます。呉王自体がミャオ族を基盤にしていたと解釈するのが最も簡単な解決法です。呉の解説のところで書いた、周人が上位に入ってワラやウラと自称するようになったミャオ族という形です。言語は漢語方言と扱っていいような上層階級の言語と下層階級のタイ系言語に別れていたと考えられます。アルタイ系要素がかなり強く入っていたのではないでしょうか。

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ミャオ

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モン族は、東南アジアや中国の山岳地方で生活する少数民族の一つです。ラオスのモン族は、ロー氏やハー氏など5つの氏族を中心に生活を営んでいました。
しかし19世紀に入るとフランスによる植民地統治政策の一環で、ロー氏系を差別、圧迫します。これがきっかけとなり民族が分断してしまいました。

第二次世界大戦後、ラオスはフランスからの独立運動が盛んになりますが、その中心がパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)でした
パテト・ラオはさまざまな民族で構成されていましたが、モン族ではロー氏系が中心となっていました。それに対抗するためフランス軍はハー氏系のモン族を徴兵し、前線に派遣します。その結果、モン族同士が敵味方に分かれて戦うことになりました。

この独立戦争はパテト・ラオが勝利したことで一時収束します(第一次インドシナ戦争)。その後インドシナ休戦協定が締結されますが、それを無視する形でフランスを支援していた米国が進出し、パテト・ラオは米国と戦うことを余儀なくされます。ロー氏系のモン族も同様です。そして、先の戦争でフランス側についたハー氏系のモン族も同様で、今度は米国側につきました。

この戦争もパテト・ラオの勝利で終結します。その結果、米国側についたハー氏系のモン族(約30万人)はラオス国内での迫害を恐れ、国外へ逃れました。彼らはその後、近隣諸国を経由して米国などへ難民として亡命するか、もしくは国境付近の難民キャンプに収容されました。タイ・ラオス国境にある難民キャンプもこの一つです。

これらへの援助は、ラオスをはじめとする共産主義国家への牽制として、そしてラオス国内での反政府ゲリラを続けるモン族への支援の拠点として、欧米諸国が中心となって行いました。しかしソビエト連邦崩壊後、東西冷戦が終息に向う1990年代になると、タイはラオスとの関係改善をめざすことになります。それにより難民キャンプのモン族の存在が重荷になったタイ政府は、1991年、移動の自由や耕作の自由を剥奪しました。
そして、それに追い打ちをかけるように、1992年、国連が難民問題は解決したという決議を出したため、支援が打ち切りになってしまいました

こうして、以前は自由にタイ国籍を取得できていたモン族は、この決議によって難民資格を失い、不法滞在者として扱われるようになりました。このような無国籍のモン族は2万人と言われています。

その後、タイ政府はモン族の受け入れを米国に要望し、1万5000人が米国へ移住しました。しかし、米国へ亡命しようとラオスからタイへ越境してくるモン族は後を絶ちません。2004年、とうとう米国は、これ以上受け入れはできないと決定しました。こうしてタイ国境付近でモン族は、ラオスに戻ること以外に、行き場を完全に失ってしまったのです。

2006年12月、タイ政府はモン族難民をラオスへ強制送還するため、タイ国境のノンカイ収容所へ移送しますが、ラオスでのモン族に対する迫害を懸念する国際社会の圧力を受け、強制送還を一時中断しました。しかしその後もキャンプでの拘留を続けたため、2008年1月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、ノンカイで拘留されているモン族難民149人を釈放するよう、タイ政府に要請しました。しかしタイが未だに難民条約に加入していないため、状況は変わっていません。

モン族以外では、同じような経緯でビルマ(ミャンマー)から逃れてきたカレン族などの難民(約15万人)が同じような状況におかれています。この間、タイ政府とラオス政府は「ラオス・タイ国境安全委員会」を2007年5月に設置し、2008年末までにモン族をラオスへ強制送還する意向を明らかにしました。

日本の外務省によると、2008年12月現在、合計417人がラオスへ引き渡され、未だ6130人のモン族がタイで暮らしています。国境なき医師団は、タイ政府は2008年6月に、モン族難民800人をラオスに強制送還したと報告しています。




キャリー・マリス博士






麻賀多神社


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【メモ】

太陽と月
表と裏

・オモ(面)…呉、韓人、太陽、重い、刀、まさかり、龍、虎
・ウラ(温羅)…

秦人(楚人)に分類した、中臣氏、津島氏、壱岐氏は卜部という占いに係わる一族
・卑弥呼の弟、大吉備津比古に敗れた吉備冠者もウラ(温羅)です。したがって、反対側の表、面(オモ)は越系要素に分類
・「重い」…呉楚系は反対の「軽い」があり、民族名カラや小人のスクナビコナにつながる


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