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手の倫理/他者と生きる/占星学

他者の書いた文章なのに、自分の核になってる部分がむき出しになったように感じ、ぐわんぐわんと揺れている。




手の倫理


第3章 信頼

GPSに見守られた学生

 気になるのはそこに信頼はあるのかどうか、ということです。確かに、居場所が分かることは、親からすれば安心でしょう。しかし子供の成長を思って、自分が感じている不安をぐっと抑えなければならない瞬間があるはずです。たとえば子供が「一人で電車に乗ってみたい」と言いだしたとき。あるいは「一人で料理をしてみたい」とお手伝いを申し出たとき。つまり子供が「冒険」を望んだときです。

P90


安心と信頼は違う

 子育ての方針についてはいろいろな考え方があるでしょう。それは本書の主題ではありません。重要なのは、「信頼」と「安心」がときにぶつかり合うものである、ということです。「安心」を優先すると、「信頼」が失われてしまう。逆に「安心」を犠牲にしても、相手を「信頼」することがある。二つの言葉は似ているように思われますが、実は相反するものなのです。
 社会心理学が専門の山岸俊男は、「安心」と「信頼」の違いを、「針千本マシン」という架空の機械を使って説明しています。針千本マシンとは、喉に埋め込むタイプの機械で、その人が嘘をついたり約束を破ったりすると、自動的に千本の針が喉に送り込まれる、という仕組みになっています。

P91

 重要なのは、このマシンがあることによって、まわりの人が、この人間は嘘をつかないはずだという確信をもつということです。まわりの人は、その人物の人格の高潔さや、自分たちとの関係を考えてそう思っているのではありません。嘘をつくと彼/彼女は不利益をこうむる。だから、合理的に考えて彼/彼女は嘘をつかないはずだ。つまり、まさにその人物が「針千本マシン」を埋め込まれているから、彼/彼女は嘘をつかないはずだ、と判断するのです。
 果たしてこれは「信頼」でしょうか。それとも「安心」でしょうか。山岸は、ここには「安心」はあるが「信頼」はないと言います。

P92

 要するに、安心とは、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を意識しないこと、信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということです。

P93


リスクが人を生き生きさせる

 認知症の介護の世界でも、信頼と安心の違いが問題になることがあります。
 介護福祉士の和田行男は、認知症の高齢者がともに生活を営むグループホームを営んでいます。和田はこの施設に夜間以外は鍵をかけません。つまり、入居することお年寄りが、施設から自由に出入りできるようになっているのです。もちろん、扉にセンサーをつけ、必要に応じて職員が付き添うなど、安全対策はきちんとされています。周囲の「目」がある範囲内で、お年寄りの自由度が確保されている。そうすることで、ふつうの家に近い状態ですることができるのです。
 「ふつうの生活」がなされている証拠に、入居しているお年寄りたちは、自分でできることは自分で行います。洗濯、掃除どころか、買い物に行き、料理もします。包丁も握るし、火も使うのです。
 いくら安全対策がなされているとはいえ、周囲からすれば不安も残るでしょう。「ふつうの生活」にはさまざまなリスクがともないます。実際、目を離したすきに入居者さんが外出してしまい、長時間行方不明になってしまうケースもあったそう。「鍵をかけないのは危険だ」という批判も当然寄せられます。
 それでも、和田は認知症のお年寄りを信じようとしました。確かに、鍵をかけ、行動を制限すれば事故などのリスクは減ります。けれども、それは生きていることにならないのではないか。和田は介護現場の現状をこう述べます。

P95

 とどのつまり、本人が椅子から立とうとすると「危ないから座っていてください」と行動を制止し、本人がどんなに頑張っても立ち上がることができないようなソファーを置いてそこに座らせておいたり、施錠して出ていけないようにしたり、物を隠して触らないようにする、薬物を使うなどの手を打つことになるのです。
 すると家族等が一番望む「安全な生活」は担保できたとしても、自分の意思を行動に移すという人としてのステキな姿は消え失せ、そのことからくる混乱は増し、動かないことによる心身の活動性低下や能力の衰退が合わさって起こるなど、「生き生きとした姿」を失うことにつながりかねないのです。


ハンバーグが餃子に

 ちなみに2012年にこの和田の施設に取材に行ったのが、当時NHKのディレクターだった小国士郎でした。滞在中、お昼ご飯に、入居者さんが料理を作ってくれることに。聞かされていた献立はハンバーグでした。
 ところが、いざ食卓に運ばれてきた料理はなぜか餃子だった。「ええと、ひき肉しかあっていない・・・・けどいいのかな・・・・?」のど元まででかかった「これ、間違いですよね?」の一言をぐっと飲み込んで、小国は思います。「ハンバーグが餃子になったって、別にいい」。

P97

間違えたって、おいしければ、なんだっていい。
 それなのに「こうじゃなきゃいけない」という "鋳型いがた" に、認知症の状態にある方々をはめ込んでしまえば、どんどん介護の現場は息苦しく窮屈になっていく。
 そしてそんな考え方が、従来型の介護といわれる「拘束」や「閉じ込め」につながっていくのかもしれない。


「ふれられる」とは主導権を手渡すこと

 さて、この信頼という問題について、接触の具体的な場面に近づけて考えてみましょう。
 まず認識しなければならないのは、ふれる側にとっての信頼の問題と、ふれられる側にとっての信頼の問題は、やや様相が異なるということです。自分の体にさわる場合には「さわるとき、さわられてもいる」という純粋な対称性が成り立つかもしれません。けれども、別の人の体にふれる場合には、そうとはいきません。関係は必ずしも対称ではないからです。


第5章 共鳴

足がすくむ

 言うまでもなく、この「現在への集中」は第3章で扱った「信頼」の問題と密接に関係しています。信じているからこそ「どうなるんだろう」という予測スイッチを切り、「伴走者といっしょに走る」という行為に身を任せることができるからです。
 序で書いたとおり、私もアイマスクをして伴走者と走る体験をしたときには、とてつもない恐怖と不安で、最初は足がすんくでしまいました。伴走してくれたのは大のベテランだったのですが、一歩踏み出そうとするたびに、足元に段差が「見え」たり、目の前に木の枝が「見え」たりするのです。もちろん、アイマスクをしてきるので、物理的に何かが見えているわけではないのですが、おそらく予測モードが過剰に発動していたのでしょう、段差や木の枝が「ある」ように感じていました。
 でもある瞬間、実際には走り出してほんの数分のうちに、こうした不安と恐怖は私から離れていきました。そのときの感覚は「大丈夫だ」と確信できたというよりは、「ええい、どうにでもなれ」とあきらめて飛び込む感じに近かったように思います。まさに不確実な要素があると自覚しながらも、ひどい目にあわないだろうと「信頼」した瞬間でした。
 あのときの信頼は、果たして何に対する信頼であったのだろう、とときどき思い返します。もちろん、伴走者をしてくれたその人に対する信頼は大きかったのですが、それだけではないように思います。二人の人間がロープでつながりながら走るということが可能だ、という行為そのものへの信頼や、それをあたりまえにやってきたブラインドランナーがいるという歴史への信頼、そして自分自身の身体能力への信頼、そういったものが混ざって可能になった「走る」であったように思います。
 いったん信頼が生まれてしまえば、そのあとの「走る」の、なんと心地よかったことか。最初はウォーキングでしたが、すぐにおのずとスピードがあがって走り始め、最後は階段をのぼることまでできるようになりました。ずっと走っていたい! それは、人を100%信頼してしまったあとの何とも言えない解放感と、味わったことのない不思議な幸福感に満ちた時間でした。
 と同時に痛切に感じたのは、いかにふだんの自分が人や状況を信頼していなかったか、ということでした。怪我をする覚悟も含めて人に身を預ける、などということを、私はほとんどしたことがありませんでした。もちろん、子供のころは周囲の大人に身を預けていたはずです。けれども子供は、必ずしも不確実性を分かったうえで信頼しているわけではありません。信じて依存する、というのは私にとって非常に新鮮な経験でした。

p154-155


第4章 コミュニケーション

 老衰死とは病死でも事故死でもない。その死に立ち会う家族に求められる態度というものがあるように思える。その態度を養うには、閉じていく父親、母親、おじいちゃん、おばあちゃんの身体に触り続けることが必要であるように感じる。身体の有限性を触ることで知るのである。

p138

【個人的なメモ】
・「さわる」は伝達、「ふれる」は生成
・伝達モードは「安全」と相性がいいが、それでは「信頼」は育まれない
・「その場で生み出していく」という生成の要素
さわる→ふれる
・「拾い合う」という動的な関係を築くことができないときやりとりは暴力的なものになる


他者と生きる

リスク・病い・死をめぐる人類学


 病院の中で、非常に大人しいおじいさんだったんですけれども、そこの近隣住民の方々と集まって、話をして、こういう風に倒れていた時は、もっと早く気づくように皆でしましょうとか、いろいろな家の中をやっぱり1日2回は誰かちょっと覗きにいって声かけしようとか、そういう話をした後、そのおじいさんが、ふとこう言ったんですね。「じゃあ、どうやったら死ねるんだ」と。
 そのおじいさんはそこから、とうとうと語り始めたんですけど、そのデイゴの木の下で休んでいたと、庭のね。デイゴの木の下で休んでいて、そうしたら、だんだんスーッと気が遠くなっていったと。そして陽射しの中で、ああ俺はこうやって死んでいくんだなと、奥さんのところに、そろそろ行くぞと思って、とっても気持ちがよかったんだ。そしたら見つけられて、救急車で運ばれて、ひどい目に遭ったと。
 こういうことを語り出して、それは病院の中では絶対に語らないんですね。自宅だからこそ語ってくれたことで。だけど今度は、近隣住民が、それを見つけて俺たちが放っておけるのかよ、と言って。

P169

 結局この話し合いでおじいさんがまた倒れた時についての結論が出ることはなかった。しかしおじいさんはそれを話せたことでとても安心した表情になり、皆の前で眠り始めてしまったという。近隣住民は、おじいさんはこのように考えているのだから、万が一それで亡くなったとしてもそんなに後悔する話ではない。血眼になって様子を見に行く必要はないと彼との距離のとり方がわかってきた。


 座談会の中では、人生における選択はひらめきによるところが大きいという発言が医師の高山氏から出たり、3つの看取りを経験した轟氏からは決定はいかようにでも変わりうるし、変わることは悪いことではないという話がなされたりする。また紅谷氏からも「人生会議」というとエンディングノートを書いたり、マルバツ方式で事前に全てを決めておくといった想像しがちだが、実際はそうではなく、その「会議」は普通の雑談の延長であるべきだといった話がなされる。
 これら3氏の発言は共同意思決定の考え方にかなり近いと言えるだろう。人生における大切な選択は、膝を突き合わせて理詰めでなされるようなものではなく、雑多なものを含んだ長い関わりの中で、なんとなく緩やかに生じてきたり、あるいは逆にたまたまの出会いや、突然蘇った思い出、誰かの唐突な思いつきの影響を受けてなされ、その上でなされた決定がそれまで考えていたのを覆すこともある。
  つまり共同意思決定モデルにおける意思決定は私たちが日常でなす決定のあり方に感覚的に近いものといえ、そのありふれた選択のあり方を、この座談会では「人生会議」として語り、医学会では「共同意思決定モデル」としてはなしているのである。
 人生会議の根幹にある決定と選択の哲学がそのようなものであるとするなら、「人生会議」といった言葉が政府から出てくるというのはある意味皮肉と言えるだろう。文化人類学者によるさまざまな民族の記録は、近代国家や現代医学の枠組みが導入される前の社会では、それぞれの社会が独自のやり方で病気と死を理解し、看取りを行ってきたことを明らかにする。つまりそれぞれの社会において「人生会議」なるものは、トップからの掛け声なしに暮らしの中で当たり前のこととして行われており、受け継がれていたのだ。
 しかしそれぞれの社会が育んだ病気や死についての認識や実践を、非科学的、非人道的といった言葉で脱色していったのは、他ならぬ近代国家と現代医学の推進者たちであり、それゆえ非専門家である人は病気や死を語る言葉とそれに呼応する実践を奪われていった。しかし今度は、奪った側にいる人々が、どのように生き、どのように死んでゆくべきかを医療者任せにせず、自分たちで考えましょうといった行動を始め、人生会議がなかなか普及しないことを危ぶんでいるのである。
 ところがこのなんとも皮肉な状況は、「自分らしい死」を実現するための方法が人生会議であるという認識の中では隠蔽される。なぜなら「自分らしい」という言葉そのものが、「自分らしい死」の中に織り込まれた他者の意思や承認、つまり「自分らしさ」が合意の形式に他ならないという事実を覆い隠し、翻ってその言葉そのものが、個々人の奥底に秘められた願いの現実という、現代社会が希望を賭ける物語の端緒として駆動するからである。

P174-176


 私たちが選択において選ぶことができるのは、選択において変わってしまうだろう自分を発見し、その変容した自分がその後起こる出来事に対応してゆくことを許容することである。あなたは「選ぶことで自分を見出す」。「選び、決めたこと」の先であなたという存在が生まれてくるのだと。

P250

伸長する時間

 関係論的時間が最も伸長するのは、出会ったニ者が自他の関係性を既存の役割や規範に回収させない、あるいはし得ない状態において、徒歩旅行を試みることである。つまりこれから行う投射がうむくいくかは全くわからないけれど、とりあえずその先に何かがあると信じて相手に向かってそれを投げ放す、といった身構えをとる時である。それは言い換えれば「なかったことにしする」選択をとらず、そこにあるものを関係性の中にふくみ入れながら、新たな関係性を構築しようとする時である。

P263-264


占星学

 月信仰の時代において、宗教は霊的世界の目に見えない力を扱っていた。そして国家宗教が太陽神、つまり戦いの神、自己誇張の神そして、この世のものの神に移った時でさえ、その霊的な性質は月の神性と共に残ったのである。なぜなら月信仰とは、創造性、自然の実り豊かな力を崇拝することであり、本能の中に、そして自然法則と一致したものの中に内在する知恵を崇拝することだからである。これに対し太陽信仰は、自然を克服するものへの崇拝であり月の示す自然の混沌とした豊かさに秩序を与え、人間の目的を達成させるために月が表す力を利用することに対する信仰である。

P70

 太陽と月は、バースチャート上で男性・女性の対を形成し、各人の中にある男性性と女性性の両極性を象徴するが、この内在する緊張感が必要なのである。それなくしては、意識も生もあり得ない。太陽と月は他の対になった概念、明と暗、精神と物質、能動と受動、父と母、生と死そして生命の有機体を支える大きな柱を構成するその他の対になったすべてのものと同類である。それらの対立物には、崇高なものから馬鹿げたものまで、全てが含まれる。太陽は単に、個人の自己実現への道を非常に広く深く暗示するだけでなく、群衆に投影するイメージについても何かを語りかける。そして月は、人間の存在の根本にある自然の生命との関係を取り戻す道筋を示すだけでなく、家をどのように維持するかとか、どのような個人的習性をもっているかについても何かを教えてくれる。このような広範囲にわたる意味は、占星学に関わる人々をしばしば混乱させる。ひとつの象徴がなぜこんな重要なものと、一見どうでもいいようなものを同時に意味するのだろうか。しかしすべての象徴はまさにその本質からして、いつもそうなのである。さらにいえば、ここで扱っているのは元型アーキタイプであり、元型アーキタイプ象徴シンボライズする惑星は、人の経験の基本的な骨組みである。それに属するすべてのものは、最も浅薄なものから最も深遠なものまで、その様式パターンに従うのである。
 出生時の月の星座サインの中に、何か個人としてはではなく、本能的な生物として自らを表現する方法を見いだすかもしれない。言い換えれば、月は本能的、もしくは非合理的な本質を象徴シンボライズする。また、バースチャート上の位置により象徴的眠り・無意識・逃避・避難場所を求める人生の領域を示すが、それは決定を下す能力や意志というより、自分の要求によって支配されることが多い。だから自我が何かに向かって努力していないとき、本能的な反応パターンの中でくつろいでいるとき、その人の月を観察できるだろう。

P70-71

 一般に男性のホロスコープでは太陽は意識、月は無意識の象徴である。そして女性のホロスコープでは月が意識、太陽は無意識を象徴する。もちろん例外もある。それは通常、女性が強い男性的傾向を持つ場合に起こり、彼女が強力に発達した知性を持っているか、もしくは自分の本能に反逆している場合である。同様に男性が強い女性的傾向を持っている場合もそうである。彼が強力に発達した感情をもっているか、個性化インディビデュアリティのための戦いの必要性に逆らっているかのどちらかである。しかし太陽と月は単一体が二つに分かれたものであり、共にそれぞれふさわしい場所において必要なものである。これら二つの象徴シンボルの調和的な統合とは、錬金術師がいう " 結合 (coniunctio)" 、あるいは聖なる結婚であり、おとぎ話でいうと、英雄と彼の恋人が末長く幸福に暮らす、という結末にあたる。しかし今まで見てきたように、実現された実験の中に、自分のすべての側面を統合させているひとは稀である。本能は通常、人生の目標とぶつかり合うものだ。なぜならその目標は到達するにはあまりに狭く、難しく、社会や本人自身の価値観によって抑えられてしまうからだ。人はその(本能と目的という)両者が生きた統一体ユニティとして表現されるよう、その両者を結婚させる必要があるとき、しばしばどちらかを選択しなければならないと感じる。人がこの内なる結婚を成し遂げることができないとすれば、現実世界での結婚を成功させることなど、どうして期待できようか。

P72-73


 ギリシャ・ローマ神話では、天王星ウラヌス土星サターン(クロノス)の父である。現世的な母親にそそのかされた土星サターン、大地の神は、彼の父親を去勢し、後に王権を握った。このような事件が生じたのは、天王星ウラヌスが自分の子孫を恐れたからだといわれている。天空の神である彼は自らが創った暗く現世的な創造物を怯えるようになってしまったのだ。その神話の断片から多くのことがわかるかもしれない。土星サターンの父に対する暴力的行為は、天の支配に終止符を打ち、地上におけるタイタンの支配を開始させた。我々は何千年にもわたる人間の文明社会に、同様のパターンを見出せるだろう。
 しかしさらに読み進めていくと、ものすごい傷口から、大地に落とされた血の雫からエリニュス・フェリーズすなわち正義と報復(カルマ)の神が生まれ、切断された太平洋に投げ捨てられた生殖器から愛と美の女神、占星学でいうと人間関係に向かう衝動の象徴シンボルである、アフロディナ、金星ビーナスが誕生したことがわかる。人間関係を通して、再び天の世界を甦らせ、意識を呼び覚ます道を見つけることができるということかもしれない。ただ知性のみでは神話の言葉を理解することはできない。直感で、そして心で聞かねばならない。そうすることによってのみ、その秘密が与えられるだろう。バースチャート上のこの三つの組みの惑星ーーー天王星・土星・金星ーーーを神話に照らして考えてみると、各人の心の中にある過程プロセス周期サイクルについて何らかの暗示が得られる。同様に有名な " 美女と野獣 " のおとぎ話を見てみると、そこでは野獣が彼女の父から美女を盗み、彼自身のために彼女が彼を愛するようになるまで、彼女を幽閉してしまう。これもまた、(我々に)同様の過程プロセスについて語っている。我々の心の中にある何かが特別な存在を否認し、それを否認されたものが復讐しているのである。それは自分自身との、苦痛でしばしば暴力的な対決という問題なのである。我々の根源、生得のもの、我々がそれと共にあり、生み、創り出すものとの対決である。しかしこの不調和な衝突から新しい調和や統合の可能性が生じる。
 天空の神と対照的に海王星ネプチューンは水の神で、神話の中では男性の姿をしているが、彼の体現するエネルギーは女性的である。大洋と深淵の神、そしてポセイドン、ヒッピオス、地震と地下の水路を司る者としての海王星ネプチューンは、集合的感情という海の象徴であり、それは下方から我々を動かし群衆の中に埋没させ、やっと手に入れたまだ不安定な個別性インディビデュアリティをすっかり放棄させてしまう。かくして我々は個を解消することを通して、自らを純化するのかもしれない。ひとつの感情的な焦点に向けて動かされたあらゆる群衆の中に、このエネルギーが働いているのが垣間見られる。もはや群衆の中に個は存在しない。あるのはただひとつの支配的な情動によって動かされた、騒然とした有機体だけである。その情動は個別性インディビデュアリティを主張できるというよりもまず、それ自身を解放せずにはいられない。それもしばしば暴力的に解放しなければならないのである。個人の意識が統合されていないこの種の状態に向かう衝動は、我々すべての中に存在し、(それは)非常に伝染しやすいものであるように思われる。サッカーの試合に行けば、それが比較的無害な形で現れたものを見ることができるし、より不吉な現れ方を見たいなら、40年前のドイツを考えてみればよい。

P85-87


 " 時空間に現れては消え、形を与えては奪う者 " とは、惑星、冥王星プルートにより体現された死と再生の絶え間ないサイクルの元型アーキタイプであり、その終わりのない旅と帰還の過程は、人生のあらゆる局面に存在する。どんな形を取っていても、そこにある生命は常に生命である。それは絶えず変化しているため、必然的にすべての形を超えてゆく。新しい生命の中に放たれ、新たな形をまとうように、順に滅びていかなければならない。自然は我々に様々な方法でこの元型的な過程プロセスについて教えてくれる。また、もし人が自らの人生を省みれば、すべての経験・態度・関係・感情・思想ーーー現実におけるすべてのことーーーに始め、中間、終り、そして異なった形を取った新たな始まりがあることがわかる。我々は本能的にこのサイクルにたじろぐ。なぜならファウストのように、ある瞬間が永遠に続くことを望むからだ。もしこの変化が心地よいものであれば受け入れやすいが、避けられない変化のサイクルが訪れ、それによって冥闇の中へと入っていかねばならないとしたら、我々はたじろいでしまうのだ。我々は冥界の支配者に対して信頼が足りないのである。多くの点でキリストの時代は、我々から冥界の支配者に対する理解を奪ってしまった。キリスト教は永遠に生まれ変わるという見方を避け、罰か報酬かで成るただひとつの決められた来世に我々の注意を向けさせた。活発で躍動的な過程を、結果的に停止状態に変えてしまったのだ。自我はその特徴として、人生が首尾一貫したものだと信じたがる。幸か不幸か、一貫してあるのは変化だけなのである。したがって冥王星は通常、無意識である心の中の情動を象徴する。そして天王星や海王星のように個人に起こる経験、ある意味で内なる死の体験をいる経験を通して、作用するように見える。死の後には必ず再生があり、新しい形はいつも古いものより偉大である。しかし試練の時になると大多数の人はこれを信じず、取り返しのつかないような何かを失ったように感じるのだ。通常それは強烈な感情の絆がある何か(あるいは人物)であり、それを通してある意味で自分の人生の一部を生きているものであるが、その一部は自らのために、それを生き抜くために再生できるものでなくてはいけないのだ。ある意味で絆は失われ、関係は変化し、そして死の経験がある。そしてもし求めれば、その人は灰の中から新たな展望、新しい誕生を見出すだろう。

 冥王星は人間関係の領域で特に重要な意味を持つ。というのも多くの人が感情的な死と再生を体験するのは、この領域だからである。冥王星はまた、セクシュアリティとも関係するが、それは性的行為の象徴シンボライズするもの、つまり「他者」を経験し両者から流れ出る新しい創造的生命力を経験する中で、お互いに分離しているという感覚がなくなるという可能性をもつ、という意味においてである。新しい生命の創造は、常にある種の死、心理的態度の変化を伴っている。子供を産むということは、必然的に心にこの種の変化を生み出す。なぜなら子供から、子供を生み出す親へと変化したとこで、人生の新しい段階が始まるからだ。死も同様に、その文字通りの意味で冥王星の領域である。死はひとつのサイクルが終わると、新しいものの始まりを記すからである。しかし全体的に西洋は、輪廻転生リ・インカーネーションの原理を考える点では遅れをとっており、多くの偉大なる人々や東洋思想一般では、文字通りの再生の、あるいは生と死のサイクルの無情はかなさを通して輝く存在の永遠の生の象徴シンボル、つまり「ここに在ること」の象徴として何世紀もの間、この原理を容認できるものと見なしてきた。
 冥王星は自己変容を求める衝動の象徴である。言い換えれば成長を達成するために、絶えず形を変えていくことを必要とする成長に向かう衝動が心の中に存在するのだ。人は望むが望むまいが、成長しなければならない。そして成長のサイクルは、死・衰退・受胎・懐妊・新生の時期が必要である。この原理は自然界全体が裏づけている。これを拒否し否定しようと試みることは、今の時代ではよくあることだが、生命の根源との接触を失うことを表している。

 ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルシファル』のように、占星学が冥王星プルートと呼んでいる過程について、錬金術でもとても美しい神話的な言葉で説明している。錬金術的象徴シンボルとしてキングがいるが、彼は年をとり子供もできず新しい生命を創り出す力を失ってしまったため、もはやしっかりと国を統治できなくなっている。そして領地には作物も実らず国民は飢えと渇きで死にかけている。彼はまず自分の母か姉妹か娘と、聖なる結婚をとり行わねばならない。この近親相姦のテーマは、それが同じ源から生まれた二つのエネルギー、原理の結婚であることを暗示している。そして統合を完成させるために海の底、または地下へと降りていかなければならない。統合の恍惚の瞬間に彼は死に、彼が結ばれた闇の女性によって散りぢりに引き裂かれ飲み込まれる。その女性は懐妊し、懐胎期間の後に新しい生命をもたらすのだ。それは王であるが、再生した王であり、若さと生殖能力を取り戻し、彼自身、そして彼が統治するすべてのものを通して新しい生命が生まれてくるのである。

 自らを破壊しうる者のみが、真の意味で生きているといえる。

P90-93



太陽と月




「回復」と「感じること」の関係




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