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すばらしき世界とは?

『すばらしき世界』を観てきました。

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一般的な善悪は自分がどんな場所にいるかで変わる。
違う世界に足を踏み入れるならばその世界の善悪を学ぶ必要があり、まねをしていくことで自分のものとし、適応していく必要がある。

衰退していく流れのなかにあるならば、変化を受け入れるか否かを選択しなければならない。


この映画を観ていて、暴力や戦うことはわたしにとって非日常すぎて理解するのが難しいものなのだとわかった。
また、小さな希望に舞い上がってしまうことの危うさも感じた。
理解されたと感じることが喜びにつながる。
互いのなかに「同じ」が見つかると、つながりが生まれる。


ある場所、ある人たちの前では人間関係も円滑で自然体で生き生きしている。
しかし、別の場所、別の人たちの前では、歪みが生まれてしまう。
そこまでして別の場所に行く必要はあるのだろうか?
別の場所に行くことは良いことだと言われるが、三上にとって良いことだと言い切れない気がした。

社会のなかにいると我慢が強いられる。
だから人にも我慢を強いてしまうのだろう。


三上を見ていると、暴力によって抑圧から解放されているような気がした。
人を暴力から守ることで、自分が暴力を振るうきっかけになり、それは三上自身が解放されることに繋がっている。
理性からも解放された三上はとても生き生きした表情をするのだ。

その姿に恐怖を覚えるとともに、それが本人の正義であり、生存意義になってるなってることに悲しさを覚えた。

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ラストのシーンがなんとも言い難い心境になった。
虚無になってしまった人たちは、生きがいを失ってしまったように見えた。
不器用でどこまでもまっすぐで小さな子どものような三上に関わることで、彼らの人生に意味が生まれた。
生きる目的にもなっていたのかもしれない。



人に生きがいを求めず、自分自身のなかに持つこと。
受け入れる器がない場所に無理やり合わせて入るのではなく、特性が合う場所、最初から受け入れる器がある場所に入っていくこと。
この映画を観て自分自身に置き換えてみると、気をつけていきたいこと、改めて考えていきたいことが見つかった。


自分の思い描くすばらしき世界とは?

すばらしき世界はそもそも必要なのだろうか?

自分はどんなものをすばらしいと感じるのだろう。


真っ直ぐな気持ちをぶつけられた相手は、ハッとし自分事として動きはじめてしまうものなのだろうか。

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