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「踏み込む」と「立つ」

日常的に車を運転するのだけれど、あるときアクセルを踏み込んだときの自分の身体の状態に、ふと「なぜだろう?」と思った。

アクセルを「踏む」
アクセルを「踏み込む」

どちらの表現も使われていると思うが、私は後者。「踏み込んで」いる。

合気道でいえば技をかけるのではなく、正しい身体の動きの結果が技がかかるという状態であるということを考えると、足だけで踏み込んでいるのは違うのだろう。

実際踏み込んでいる私は、右脚に力が入り両膝が内側に入り股関節も窮屈そうだ。
たぶん身体も前に行こうとしている。

太極拳のときに「膝は内側に入れないよ」と何度も注意をうけた。
胸の中心を緩めて少しだけ内側へひくこと。
背中を張る意識をもつこと。

自分の目から見えるところには囚われやすく
自分の目から見えないところは捉えにくい

見えている世界がすべてだと決めつけず見えない世界を感じれるように開いていく

いろんな人たちが教えてくれたこと
ぽつりぽつりと思い出し身体におろす

車のブレーキを踏みたいときにあるイメージをしてみた。
後頭部をとおり、首のうしろから背中をつたっておしりまで…その時点ですーっとブレーキがかかりはじめた。
足先まで伝えていく前にブレーキがかかり、なめらかに車はとまった。
踏みこもうという意識も踏みこむ動作も起こらなかった。
けれども車はとまった。

身体はゆったりとしていて、しかも停まりたい位置になぜか停まれている。

合気道では技を受けて受け身をとって終わりではないとよくいわれた。
次の動きへ始まる通過点。

細切れにしない。
止めない。

止まっているように見えるだけで
流れていくなかの一時的な停まって見える姿。

ほんとうは停まっていない。

つながりの意識を切らないこと



そわそわしてその場に居るのが居た堪れなくなることがある。
妙な居心地の悪さというよりも落ち着くことができなくてちがう場へ身を運びたくなるのだけれど、そもそも「立つ」ことができていないからなのでは?とふと思った。

そのときの状態を思い浮かべてみると、止める動きを自分はとっている。
無意識に力を使って動きを止めてその場に居ようとしている。
無意識に息を止めてその場に居ようとしている。
気持ちが前重心になっている。
内にとどめていて開いていない
足裏から地面に伝えていない
足裏はアース
ため込まず逃がしていく。

「立っている」ってどういう状態なんだろう。


止めて立っているとき百会から糸が出ていている感覚を持ったら面白そうだと思った。


https://www.riseisha.ac.jp/risei-sinkyu/tsubo/tsubo03.html


百会を感じて背中をとおって足裏まで意識を通せたら「立つ」という感覚がわかるだろうか。

次に居た堪れない場に居ると気づいたときに試してみようと思う。


年は明けていないけれど新年の抱負が見つかった。

2024年は背中を感じられるようになりたい

自分の目ではみることのできない背中という存在
書いていて、「後頭部もじゃん!」って思ったのだけれど、そもそも自分の目で見える自分の身体って全体の半分くらいしかないんだよね。

見えていると思いこんで、それがあたりまえとして生活しているのって不思議に思えた。

不思議な世界の住人であり
不思議さに魅了された住人でもある。


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