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手 〜触れる*委ねる〜



手について

この絵の手を見て、優しい手とは「何かを動かそうと手」ではなくて、「そっと添えるような、ふわっと沿うような手」なんだなと思った。

優しさとは体温が伝わること

すぐそばに居る
包まれている(包まれていた)
と実感できること

なのかもしれない。


手にまつわる雑記

手とテとて


子どもが冬休みの宿題で余らせた半紙をラッピング用紙の代わりに使ってみた。
任期2年の役がもうすぐ終わるので一緒に役をやった人たちへ、その記念に。
同じイラストの雑貨小物をデザイン違いで。
当初そういうつもりで買ったわけではなかったのだけれど、うまい具合に着地した。
その場が盛り上がるとうれしいね。わーい♪

それにしても相変わらず切り出し方が下手くそで「急になに?!」ってなりがちなので、場に馴染む切り出し方を覚えたい。

先日、寸志のお披露目をする役割でその切り出し方がわからなくて、役で長をやる機会が多い人に聞いてみたら「わからないけど…」と言いながらもサラッと言葉が出てきていて感動した。
そういう種類の言葉は自分の中にはないのだけれど、まわりにはそういった種類の言葉が内側にある人もいて、興味を持てていない私は習得できない言葉なのだけれど、そういうとき改めて社会性のある人たちに助けられているなと実感したりする。



手でしたこと

"くわい"という名前しか知らなかったので、年末に実際に手にしてみた。
なんともおもしろい剥き心地だったので、「わぁ!おもしろー!!」などとひとりで言っていたら急に次男も混ざってきていくつか剥いていった。
きれいな六角形にするのが意外とむずかしかったけれど、みんなでやったら盛り上がって楽しいかもと思った。

実家に行ったとき母に話したら(母自身は調理したことないのだけれど)、「お正月には八角形だよね」と言いはじめて場がすんっとなった。

正直、正解かどうかなんてどうでもよくって、たぶんわたしは一緒に「ねー♪」などのやりとりをしたかったのだと思う。

手がしたこと



手が悩みながら形づくる

簡易的な万年筆を買ったのだけれど、それで書いた字がわりと好みで仕事にも日常的にも出番が多い。
どんなふうに気に入ってるのかはよくわらないけど、たぶん…多少書くときに気を使うので実用的ではない感じなのがいいのかもしれない。


手の上からも下からも
ーーいちごジュースーー

次男は注意力散漫で予測不能すぎてちょっとこわい存在でもある。

とある日、締切のある仕事をしていると、いちごジュースを作っていた次男が「見てー」といってコップと共にやってきた。
生クリームをしぼるところを見せたかったようだが、見ると上からも生クリームがあふれ出していて本人はこぼれそうだとかそういったことは気にもとめていなかった。

不注意から壊したり、こぼしたりが多い。

それらはただの結果であって、本人にとってはたいしたことではないのかもしれない。

ポッキーで顔を作りたいんだよね
といっていたので、家にあったトッポを渡すと
思いつきで顔を作っていた。

カタツムリだと思っていたらこれはウサギらしい。
ユーモアがあるから憎めない。

飲むと顔が吸い込まれていっておもしろかった!
しかも美味しかった♪



音にさわる
ーはるなつあきふゆをたのしむ「手」ー

外があまりにも寒くって、手が冷たくて逃げ込むように立ち寄った図書館。
帰りがけにふと目を向けた先にあった本に目がとまった。

点字つきさわるえほん
広瀬浩二郎・作
日比野尚子・絵



人間と犬

気になるものがあるとき
人間は手先で確める
犬は鼻先で確める




委ねる

なんでもなさそうなシーンだったのだけれど、個人的には衝撃的だった。
精神的に参ってしまった兄が妹に無言で頭を委ねると、妹はその頭に自然な流れで手をのばし触れていた。

言葉で説明することは必要なくて
ただ頭を差し出しさえすればよかったのだと衝撃を受けた。

身を委ねる勇気がないと逆に相手を遠ざけてしまうのかもしれない。


触れる

「触れる」こと「愉気」を行うことが人間関係にどのような温かみをもたらしてくれるのか家族の中で確認して欲しい。
「気」を相手に伝えていく「愉気」を通じて、あなたの家族の中で「触れる」というコミニケーションが当たり前になって欲しい。
「愉気」を行うと不思議なことに人間関係が穏やかなものになっていきます。



日々 手は何かをしている、何かに触れている。
赤ちゃんや小さな生命に触れるとき、自然とそっと触れている。
なのに成長した生命にそっと触れることができないのはなぜだろう。
無意識に雑に扱ってしまう。
壊れないと思っているからなのだろうか。

少し前から "触れる" を模索している。

赤ちゃんに触れるように自分に触れようとしたら、いたたまれない気持ちになって苦しくなった。
どうやら自分に対して雑に扱う方が楽で、丁寧に扱うことの方が苦しいことのようだ。

何かのセリフで「怒りが消えたら生きていけない」といっていた。

腕をほぐしたあとに重いものを持とうとしたら、それまで持てていた重さなのに不安定で持ち上げるのが大変だった。
支えにしていたものがなくなった感じがした。

自分に優しくすると弱さが際立つから嫌なのかもしれない。
立っていられなくなりそうで不安なのかもしれない。

"触れる" を練習していると、その温かさを感じられるようになってきた。
安心感がやってくるようになってきた。

人の肩で試してみると、はじめての感覚で変な感じだといっていた。

今はレイキの触れる順番で試している。
朝や入眠時にやるとなんともいえない幸福感があって気持ちよい。
温かい(ぬくもり)って安心のもと(生きている印)なんだと思う。


【個人的なメモ】

統合していく感覚をやってみたら感動した。
触れたときの手の感じがまるで別の手のようだった。
頸の付け根や骨盤などの手とは関係ない部分でもやってみたけど、やってみると感覚が変わっておもしろかった。




幸福について ーー人生論ーー

図書館でまだ読んだことのない訳者のアランの幸福論を探していたらこの本を見つけた。

のみならず人間能力のあらゆる発現の根源に遡って、問題を系統的に検討することも可能である。その根源とはすなわち三つの生理的な根源能力、、、、、、、、、、、である。したがってこの三つの根本能力の無目的な遊びを考察しなければならない。この場合、その根本能力のいずれが内面の主流をなすかによって、享楽のなかから自己に適したものを選ぶわけである。さて第一は再生力、、、の享楽である。飲食、消化、休息、睡眠の享楽である。はなはだしきは或る国の国民全体がこの種の享楽を国民的快楽としているなどということが、国際的な評判になっている。第二は刺激感性、、、、の享楽である。遊歴、跳躍、格闘、舞踊、撃剣
乗馬、ありとあらゆる種類の運動競技、さては狩猟、はなはだしきは闘争や戦争、などの享楽である。第三は精神的感受性、、、、、、の享楽である。考察、思惟、鑑賞、詩作、絵画彫刻、音楽、学習、読書、瞑想、発明、哲学的思索、などの享楽である。

ーーーこの三種類の享楽のそれぞれがもつ価値、度合、持続性について種々な考察をくだすことができるが、これは読者に委ねることとする。

第二章 人のあり方について P47


*原注
周知のように、災厄は大勢が一緒になってこれに耐えていけば、緩和される。世間では退屈をこうした災厄の一つに数えているらしい。だから世間の人たちは相集まって、一緒に退屈しようとしている。生命に対する愛着が結局は死に対する恐怖にすぎないと同様に、人間の社交本能、、、、も結局は直接の本能ではない。言い換えれば社交界に対する愛に基づくのでなく、孤独、、に対する恐怖に基づいている。すなわち他人の存在が好ましいものとして求められているというよりは、独居の寂莫と心苦しさとを、自己の意識の単調さとともに、避けようとしているのだ。だからこれをのがれるために、下等な社交界にも甘んじ、またどんな社交界にも必然的につきまとう煩わしさや強制をも我慢するわけである。ーーーこれに反してこうしたことに対する嫌悪の情が圧倒的となり、その結果、孤独の習慣ができ、孤独の直接的な印象に対して不感症となり、そのために孤独が前記のような結果を生じなくなれば、その後は社交界に憧れることもなく、呑気至極にいつまでも独りでいることができる。というのも、つまりは、社交の欲求が直接的な欲求でないということと、他面には、今となっては孤独というものに具わるいろいろ有益な特性に慣れきってしまったということによるのである。

第五章 訓話と金言 P219


 広い意味ではこうも言えよう。すなわち一生のはじめの四十年間は本文を提供し、これに次ぐ三十年間は本文に対する注釈を提供する。この注釈が本文の真の意味と脈絡、ならびに本文の含む教訓とすべての細かな味わいとを本当に理解させてくれるのである。
 ましてや一生の終わりごろは、仮面舞踏会の終わりごろに仮面を取るのと似たようなものだ。自分が一生の間接触してきた人たちが、正真正銘どのような人間であったかが、今となっては明らかである。性格が明るみに出され、善行悪行がその実を結び、なし遂げた仕事が当然受けるべき評価を受け、幻影はことごとく崩れ去っているからである。つまりこうなるまでには時の経過が必要であったのだ。ーーーところでいちばん奇妙なことは何かと言えば、自己自身を、すなわち自己自身の目標と目的とを認識し理解するということですら、ことに世間すなわち他人に対する自己の関係という点での認識と理解は、人生の終わりごろになってはじめて可能になるということである。

幸福について P348


幸福は人間の一大迷妄である。蜃気楼である。だがそう悟れるものでもでない。この悟れない人間を悟れないままに、幸福の夢を追わせつつ、救済しようというのである。人生はこの意味で、そのまま喜劇である。戯画である。ユーモアである。したがってこれを導く人生論も諷刺的、ユーモア的たらざるをえないではないか。著者の説く一大哲理の背後に、ペロリと出した著者の舌を見のがさないでいただきたい。

解説 P363




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