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ぼくには数字が風景に見える (読書記録)①

積読してあった本なのだけれど、昨夜急に手にとりたくなってぽつぽつと読みはじめた。
心に留まった文章をつづってみようと思う。

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サヴァン症候群で共感覚の持ち主でもあるダニエル・タメット。
手順や日課に極端なこだわりがあり、それは日常のいたるところに及んでいる。

たとえば、毎朝必ずコンピュータ内蔵の計量器で1回分の粥(ポリッジ)の量を正確に量り、45グラムきっかりのポリッジを食べる。身につけている服の枚数を数えてからでないと家から出られない。毎日同じ時刻にお茶を飲まなければ気がすまない。緊張が高まって呼吸できなくなると、必ず目を閉じて数を数える。数字のことを思い浮かべると落ち着いた気分になるからだ。

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共感覚の持ち主であるダニエルから見える世界はどんな世界なのだろう。

1  青い9と赤い言葉

 青い日に生まれて

 ぼくが生まれたのは1979年の1月31日、水曜日。水曜日だとわかるのは、ぼくの頭のなかではその日は青い色をしているからだ。水曜日は、数字の9や諍いの声と同じようにいつも青い色をしている。ぼくは自分の誕生日が気に入っている。誕生日に含まれている数字を思い浮かべると、浜辺の小石そっくりの滑らかで丸い形があらわれる。滑らかで丸いのは、その数字が素数だから。9973までの素数はひとつ残らず、丸い小石のような感触があるので、素数だとすぐにわかる。


ダニエルの世界には数字に色や質感がある。

 数字はぼくの友だちで、いつもそばにある。ひとつひとつの数字はかけがえのないもので、それぞれに独自の「個性」がある。11は人なつっこく、5は騒々しい、4は内気で物静かだ(ぼくのいちばん好きな数字が4なのは、自分に似ているからかもしれない)。


そして数字それぞれに個性がある。
彼らは友だちであり、いつもそばにあるかけがえのないもの。

 数字を見ると色や形や感情が浮かんでくるぼくの体験を、研究者たちは「共感覚」と呼んでいる。共感覚とは複数の感覚が連動する珍しい現象で、たいていは文字や数字に色が伴って見える。ところがぼくの場合はちょっと珍しい複雑なタイプで、数字に形や色、質感、動きなどが伴っている。たとえば、1という数字は明るく輝く白で、懐中電灯で目を照らされたような感じ。5は雷鳴、あるいは岩に当たって砕ける波の音。37はポリッジのようにぼつぼつしているし、89は舞い落ちる雪に見える。

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  計算するときには紙に書かない。どんな計算でも暗算でできるし、学校で教科書を使って教えられた「ひと桁繰り上がって」式の計算より、共感覚がもたらす形を使って答えを視覚化するほうが、はるかに簡単だからだ。
 掛け算をするときには、まったく違う形をしたふたつの形が見える。その形が変化して第三の形が現れる。それが正しい答え。瞬く間に、自然にそうなっていく。頭を使わずに計算している感じだ。

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ダニエルの世界では計算は解くものではなく瞬く間に現れるもの。
もはや計るものではないのかもしれない。

 輝く1と相性がいいのは暗い8や9

 詩人が言葉を選ぶときもそうだと思うが、ぼくにはある数字の組み合わせがほかの数字の組み合わせに比べてはるかに美しく見える。輝く1と相性がいいのは、暗い8や9で、6とはあまり相性がよくない。

 共感覚がもたらすこうした美的感覚には、よい面も悪い面もある。
たとえば、店の看板や車のナンバープレートにきれいに見える数が入っていると、興奮と喜びでぞくぞくする。その一方で、ぼくの美意識にそぐわない数(たとえば店の値札に、青い色ではなく赤か緑色でペニーと書かれていたりするとき)を見ると、不安に駆られ、いたたまれない気持ちになる。

片側に大きく傾けば、それとは逆方向に傾こうとする大きな作用も生まれる。
生き物であればだれでも真ん中に戻ろうとする力には抗えないのかもしれないなと思った。

 自分の得意分野で共感覚を使っているサヴァン症候群の人たちがどれくらいいるのかは、いまだにわかっていない。それは、レイモンド・バビットのように、サヴァン症候群の人たちの多くが重い精神的・肉体的障害を抱えているので、どのように共感覚を使っているのか説明できないからだ。幸いにもぼくはそうした深刻な機能障害がないので、こうして伝えることができる。
 たいていのサヴァン症候群の人々と同じように、ぼくも自閉症スペクトラム〔訳注:スペクトラムとは「連続体」の意味。自閉症やその周辺の間にはっきりとした境界線は引けないので連続体としてとらえよう、という考えかたから生まれた呼称。〕の範疇に入る。そしてぼくはアスペルガー症候群でもある。


 数字を使って人の感情を理解する

 思い返してみると、ぼくにははじめからいまのように数字が共感覚を伴って見えていた。数字がぼくにとっての第1言語だ。つまりぼくは数字を使って考えたり感じたりする。感情というのはぼくには理解しにくく、対応の仕方に困るものなのだが、数字を使うと理解しやすくなる。
 たとえば、友だちが悲しいとか滅入った気分だと言えば、ぼくは6の暗い深い穴に座っている自分を思い描いてみる。すると同じような感覚が味わえて、その感情がわかる。なにかを恐がっている人の記事を読むと、9のそばにいる自分を思い描く。美しい風景を見に行った人の話を聞けば、数字でつくられた風景を思い描く。そしていかに楽しい気分になるかを思い出す。つまり僕にとって数字は、ほかの人たちを理解する手がかりを与えてくれるものなのだ。


わたし自身、自分の興味の幅がせまく、様々なことをあいまいにしか理解していないことをよしとしているので、人の話題が理解できないことが多々ある。
感情を理解するためにダニエルが数字を使ったように、わたしは相手の感情(うれしいとか、悲しいとか、怒っているとか、驚いたとか)から自分のなかの同じ感情をとりだして相手と同じ感覚を味わおうとしている。
話の内容がわからなくても同じ感覚を味わえれば満足だったりするため、相手の話を深く理解するとことまでたどり着くのは集中力のいるなかなか大変な作業でもある。

 ときどきぼくは、目を閉じて、30までの数、50までの数、100までの数を思い浮かべては、それに包まれている感覚を味わう。すると、ほかの数字のなかから素数だけがとても美しい特別な形で浮かび上がってくる。
 夜眠りについているとき、心のなかにいきなり明るい光が射し込んできて、たくさんの数字(何百、何千もの数字)がものすごいスピードで泳いでいくのが見えることがある。これはとても美しい。心なごむ光景だ。眠れない夜には、数字の風景のなかを歩く自分を思い浮かべる。すると穏やかで、満ち足りた気分になる。素数が道しるべになってくれるから道に迷うことはない。

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”素数が道しるべになっているから迷うことはない。”
わたしはどんなものを道しるべとしているのだろう。





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