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つぶやき

昨日は濃い1日だったので、脳疲れで今朝は頭がぼーっとしている。

春は変則的なことが多く、新しい行動を起こしたり参加する機会がぎゅっとつまってしまう。
とくに身体よりも頭が忙しくなりがちだ。

そんな頭で長男を中学校まで送って行った。

信号待ちをしていると、今は違う中学に通う小学校の同級生が横断歩道を自転車を押して渡っていた。
卒業式では肩を組んでふざけ合っていたふたり。

「◯◯くんおはよー。いってらっしゃい!」

見かけて、「!!」となったわたしは何も考えず車の窓を開け声をかけていた。

そのとき息子から声が発せられていないことに気づき後部座席を見ると、隠れるように頭を下げて慌ててマスクをつけていた。

その姿を見てはじめて「マスク」はマスクなのだと体感的に気づき、とても驚いた。

不安や恥ずかしさから隠れるためのものになってしまったんだなと思った。
気持ちを内にしまいがちな子は、マスクをすることでさらに外へ出す機会を失う。

自由奔放の次男でさえ学校の規律には従順で、その場では「あたりまえ」になっていることを律儀に守る。

守るというより、その行為に対して違和感を抱かなくなるんだろうな。
守ってるというより、していないことで破っているという感覚になりやすいのかもなぁ。

つい先日、長男の迎えの帰りにコンビニに寄ったのだけれど、そのとき次男はマスクを持ってきていなくて、コンビニの入口まで行ったものの「やっぱりマスクがないから入れない!」とあわててと車に戻ってきた。
本人は買いたいものがあってそれを買うと決めていたはずなのに。

そんなとき足並みをそろえることに重きをおくことには理解はできるが、最重要ではないのではと思ったりする。
学校では自分の意見を持つことを求めているが、それよりも全体性が重視されている。

「あたりまえ」を「そうあるべきである」として扱うこと。

でもきっと自分のことだから見えていないだけで、わたしにも「みんなのあたりまえ」を「自分のそうあるべきである」にしてしまっていることがたくさんあるんだろうな。


それとは逆の「自分のそうあるべき」を「みんなのあたりまえ」として思い込んで言葉を発していることもありそうな気がした。

「あたりまえ」が実はあたりまえではないと気づくことって、頭だけではなかなか腹落ちしないし、何か体験した拍子にハッとして気づくものなのかもね。

そんなことを思った今朝のできごと。

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