言われてハッとしたこと
そのときはその他の言葉と同じように流れていったものが、あるとき再び浮かんできて突然ハッとすることがある。
そんなときは何かを変えてみるきっかけになることが多い。
お弁当
春を迎える少し前、施術を受けているときに繁忙期の話になった。
畑でのお昼出しのときに6人分のお弁当を用意したりしていると話すと、「作ってるの?」と聞かれ、わたしは「買ってきてます」と答えた。
そのときは小さな引っかかりは感じたけれど留まることなく流れたのだけれど、それから数日経ってから急に「なぜわたしは個数が多いからといって"お弁当を作る"という選択肢をあたりまえとして排除しているんだろう?」と疑問に感じた。
「個数の多いお弁当を作る=大変」というのは本当にそうなのか。
「買ってくるほうが楽」だと思っているがそれは本当にそうなのか。
中2の長男が高校生になったら毎日お弁当になる。
それも兼ねてお弁当づくりのハードルを下げるために今のうちから練習を兼ねて作ってみることにした。
もともと週末の部活の日はお弁当を作っていたもののこれまで多くても2人分だった。
とりあえずやってみた記録。
今回 作る機会があれば大変だと思い込まず作ってみたところ、食材の買い出しが済んでいて、お弁当の内容も事前に決めておけば、個数が増えようが当日買いに行くよりも断然楽だということがわかった。
ハードルを下げるために一品でもおかずを手作りしたらオッケーとしたのはよかった。
頑張れないときは手抜きするのもいいし、作りたい気分のときはがっつり入れ込んでもいい。
個数の多いお弁当は連日になるとさすがにキツさを感じるが、お弁当のコツがわかるとあまり作るためのエネルギー(気合い)は必要ないというともわかった。
肩甲骨
あるマッサージの施術法や受けるとどんな感じなのかが気になって受けに行ってみることにした。
その人の言葉とその人のとる行動がチグハグで、施術法のおもしろさよりもその人のチグハグさが不思議だった。
その施術法にとっての気の存在やその重要性を話しているのに、相手の身体と繋がらないことや身体に対してそこら辺の石ころのように扱うところが不思議だったし、その感覚が理解できなくておもしろかった。
施術を受けているときに、わたしのなかでは手を尽くしたつもりになっていた動かない右肩甲骨に対して、「肩甲骨に指も入らないし、動きが悪すぎてこのままいくと四十肩、五十肩になるよ」と言われた。
施術後、ほんの少しだけ右肩甲骨に動きが見られたので、一度すべて忘れて赤ちゃんのようにゼロから肩甲骨の動きを覚えていってみてもいいのかもと思えた。
些細な何気ない言葉がきっかけになる。
相手がくれる、自分だけでは気づけない言葉。
笑顔とはなんなのか?繋がりとは?
先日、稽古を受けるためにつくばへ向かった。
早く着いてしまって公園でお昼を食べながら時間をつぶしていたのだけれど、幸せな瞬間がいくつかあった。
・ベンチで眠くなってぼーっとしていたらヨチヨチ歩きの子がひとりで近づいてきて「いないばぁ」をしてくれたこと。
・カップに残った氷と溶けた水を排水溝に流していると小さな子がじーっと見ていたので「じゃーってしちゃった」とわたしが言ったら、そのあと来たお母さんに「じゃーって、じゃーって!」と一生懸命話していたこと。
・しゃがんで頭を膝の上に乗せて横を向いていると、幼稚園生くらいの子が覗きこんできて目が合ったのでお父さんに気づかれないようにこそっと笑い合ったこと。
言葉を使わずに繋がれる瞬間って楽しいなと改めて思った。
そういえばあるとき、ドラッグストアの女性の店員さんが営業スマイルではない心地の良い笑顔を向けれくれる人だった。
わたしの前には中年男性がいたのだけれど、その女性には目もくれず、商品を雑に置き、受け取るときも相手からもぎ取るように受けとっていた。
その男性にはどんなふうに映っていたのだろう。
せっかくその人に笑顔を向けてくれているのに受けとらない(または受信できない)のはもったいないなとわたしは感じるのだけれど、非言語コミュニケーションを好むわたしだからなのだろうか。
そのあとに並んでいたわたしにも同じように変わらず笑顔を向けてくれた。
わたしも同じように返したのだけれど幸せな気分をいただいた。
まだ気づけていないことろでは、義務感や欲に関係なく自然なかたちで相手にその人のエネルギーを分けてくれている人が他にもいるんだろうな。
閉じすぎずにそういう瞬間に気づいていきたい。
人からは見えない秘密のスタンプラリーだと思ったら楽しい気分になった。
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