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華族/三つ葉葵/宮さん

気になったことなどの集まり。




幻の葵勲章

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1867年のパリ万博には幕府の外に、薩摩藩、佐賀藩、江戸の商人清水卯三郎が出品をしました。
 特に、薩摩藩は幕府に先行して周到な準備を進めていました。日本国が幕府の一元的支配下にあるのではなく、諸藩により分割統治されているという印象を与えることにより、幕府権威の失墜を狙っていたのです。
 そのための有効な武器となったのが、薩摩勲章です。薩摩藩は一方的にこの勲章を各国関係者に与え、外交的得点を稼いだのです。
 これに危機感を抱いた幕府は、急きょ、幕府の勲章である「徳川葵勲章」の製作準備を進めました。しかし、この勲章は完成することなく明治維新を迎え、幻の勲章となったのです。


日蘭交流の歴史

平戸オランダ商館時代 (1609-1641)

徳川家康を初代将軍とし、徳川幕府が成立したのは1603年。
既に家康は、貿易を許可する朱印状をオランダに与えていた

朱印状は リーフデ号漂着から生き 残った乗組員に託され、彼らが日本のジャンク船でパタニ(現タイ)に到着した1605年、ようやくオランダ側の手に渡った。朱印状を受け取ったのは、リーフデ号の生存者クアーケルナーク叔父である、オランダ東インド会社の艦長マテリーフだった。
オランダ東インド会社(VOC)は、その数年前の1602年に 設立されている
それまでアジア各地に散らばっていた小規模なオランダの貿易会社を、一つの強大な組織にまとめたのが東インド会社だ。
多くの船を一斉に集め商船団を組み、世界の貿易を一手に掌握することを目指していた
また、世界で最初の株式会社としても知られている。しかし、東インド会社は単なる貿易会社ではなく、オランダ政府は外国政府と通商関係を結ぶ権限も与えていた。
二回目に発行された朱印状では、幕府はオランダが日本のすべての港に入港できる許可を与えており、貿易を強く奨励する意が読み取れる
この朱印状は現在、オランダのハーグ国立中央文書館に保管されている。
実際にオランダ船が日本の港に入港し、将軍の意に添うことができたのは1609年。その年、最初の東インド会社の公式船団2隻が平戸に到着した。そしてオレンジ公マウリッツ王子からの国書が受け渡され、日本とオランダとの貿易が初めて正式に認められた。
ジャック・スペックスは、平戸オランダ商館の初代館長に任命されている。
九州の北西の端に位置する平戸は、中国や台湾との貿易に有利な立地である。が、残念ながら当のオランダ人は、平戸に商館が置かれたことをそれほど歓迎しなかった。なぜなら、裕福な商人のほとんどは、平戸ではなく長崎周辺に住んでいたからである。
オランダ人は漂着して以来1641年までは、自由に外を出歩くことができ、日本人との接触についても何ら制限を受けていなかった
オランダ人は平戸に鋳造所を建設し、井戸の掘削も行っていた
日本人の職人を雇い入れた時には、彼らの技術の高さに感嘆したという。

しかし、日本における最大の目的であるはずの貿易はというと、あまり順調ではなかった。
アジアにある他の東インド会社からの船が、計画通り日本に到着していなかったこと、そして東インド会社は中国に商館を持っていなかったため、日本で最も需要が高かった生糸を十分に供給することができなかったことがその理由である。
この問題を解決するため、オランダ人は積荷を満載したポルトガル船を襲うという手段に出た

当然ポルトガル人これに反発し、オランダ人の海賊行為に対する抗議を幕府に申し入れた。
その結果、幕府は日本領海内での積荷略奪を禁止した。
朱印船貿易がさかんになる一方で、幕府は“南蛮人”および“紅毛人”ら外国人との接触に対し、にわかに規制を強化した。
1614年、 幕府はキリシタン禁令 を発布し、日本で布教活動をする宣教師や一部の有力なキリシタンをマカオに追放した
禁令は厳しく実行され、多くのキリシタンが殉教の死を遂げた。
また、 地下活動に入った者もいた。続く1621年には、日本人が許可なく外国船に乗り込むことが禁止され、やがて海外に渡航することも全面的に禁止された。
1639年には、外国人を父に日本人を母に持つ混血児たちが、日本から追放された。
その中には平戸のオランダ商館長ファン・ナイエンローデの娘もいた。彼女はバタビア(現在のジャカルタ)に流されている。一度日本を去った混血児らは、日本の家族と連絡を取ることさえも許されなかった。親子の絆を引き裂く、 非情な裁きである。
このように追放された混血児たちが、故郷恋しさのあまり絹の着物地にしたためた“ジャガタラ文”と呼ばれる手紙が、平戸郷土観光館に展示されている
こしょろという女性が書いた手紙も、ジャガタラ文の一例である。1657年になると幕府は規制を緩め、家族の近況を書き記した“音信”を送ることを許可した。コルネリア・ファン・ナイエンローデも、平戸に住む家族に向けて音信を送っている。こちらも平戸郷土観光館で所蔵されている。
ポルトガル人を日本人から隔離するために幕府が出した結論は、人工島の建設だった
これが出島の始まりである。1636年、ポルトガル人は出島に住居を定められた。彼らの出島暮らしは、島原の乱において、キリシタン反乱軍幇助の容疑で国外追放を命じられる1639年まで続くことになる。この戦いでオランダ人は幕府側について戦ったが、結果は散々であった。が、オランダ人はこの痛手を無駄にはしなかった。
ポルトガル人を追放しても今まで通り日本に輸入品を供給できるから、ここは一つオランダ人に任せてくれと、幕府を粘り強く説得した。

ポルトガルに雨が降れば、オランダにも小雨が降る。これは、あるオランダ人艦長の名言である。ポルトガル人が追放され、出島は主人を失った。オランダ人を役人の目の届くところに置いておきたい幕府は、これで格好の囲い場所を得た。
1640年、幕府はオランダ人を出島に隔離するためのもっともらしい理由を見つけた。

当時、平戸のオランダ商館には、火災から商品を守るため石造りの倉庫が2棟あった。商館長のフランシス・カロンはヨーロッパの習慣に倣い、倉庫の破風に“Anno Christi 1640”、つまりキリスト生誕から1640年と記した。この一件が災いとなり、オランダ人はいよいよ出島に移転させられることになった。
幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、オランダ人は1641年、平戸を後にし長崎港に浮かぶ出島に居を移した。
以来、日本との接触が許された西洋国は唯一、オランダのみ となった。


マカオとキリスト教

天主堂の建設には、江戸幕府によるバテレン追放令(キリスト教弾圧の令)を受けてマカオへ渡った日本人キリシタンも携わっていた。ファサードに施された数々の彫刻の中には、聖母マリアが7つの頭を持つ龍を踏みつけたものがあるが、一説によると、龍はキリシタンに踏絵を強制した徳川家康を擬しているのだとか。


東インド会社

各国の東インド会社

イギリス東インド会社:1600年~1858年
オランダ東インド会社:1602年~1799年
フランス東インド会社:1664年~1769年
[1]
イギリス東インド会社

新興国イギリスの東インド会社は、エリザベス一世から「東インドとの交易を行うロンドン商人たちの代表と組合」宛ての特許状を得て、正式に国から認可された組織として設立されました。
その後、イギリス東インド会社は貿易をめぐってオランダ東インド会社と競い合うことになります。
しかし航海のたびに資金を集め、航海が終わると売り上げをすべて出資者に還元する方式のため継続的な利益確保が難しく、オランダとの競合は難しい状態でした。

1613年、平戸(長崎)に商館を置きますが10年ほどで閉鎖しています。
オランダ東インド会社

資金提供する商人や金融業者がロンドンのみだったイギリスと異なり、オランダでは北海沿岸都市に拠点を置く貿易組織がすでに複数存在し競合していました。
それらの組織が同時期一斉に品物の入手や販売を行うため、仕入れ価格の高騰や販売価格の下落を繰り返し、利益確保が不安定でした。

そこで安定した利益を得るため、これら6つの組織が合併し、巨大会社「オランダ東インド会社」が設立されます。

1回の航海ごとに資金が出資者に返還されるイギリスと異なり、オランダでは集めた資本は10年間据え置かれ、資本の使い道は会社が決める運営方法をとっていました。

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旧華族と序列


宮さん

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第二次長州戦争では御楯隊参謀として軍功をあげ、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍した。
 歌詞の一番に有栖川宮熾仁親王の姿を歌った「宮さん宮さん~」の歌い出しで知られる『トコトンヤレ節』を作詞したことでも知られている
 なお、品川弥二郎の妻・静子は、日本陸軍の祖である山縣有朋の姉・山縣寿子の長女。


有栖川宮熾仁親王

歌詞は、戊辰戦争での新政府軍(官軍)の気勢を描いている。
歌詞の「宮さん」は、戊辰戦争時に新政府の総裁で東征大総督でもあった有栖川宮熾仁親王を指す[6]。
慶応4年1月(1868年1月)、薩摩藩(島津氏)・長州藩(毛利氏)・土佐藩(山内氏)の三藩(頭文字から薩長土)を中心とした諸藩から編制された新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍と戦い勝利した。翌月には、新政府総裁の有栖川宮熾仁親王が東征大総督を兼務して、明治天皇から錦の御旗と節刀を授けられ、東海道の進軍を始めた。

俗謡調の覚えやすい歌詞と明るい曲調により、新政府軍の兵のみならず広く人々に愛唱され、後には『小学唱歌』[7]などの唱歌集や、尺八[8]、銀笛(フラジオレット)[9]などの楽譜にも収録された。

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有栖川宮幟仁親王の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。
和宮親子内親王と婚約していたことで知られる[3]が、徳川幕府の権力失墜に伴い公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した
旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える

貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。
明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。



宮崎航空機製作所


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