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ヴァイオレット/大舞鶴/豊受大神と加佐と朝鮮古代語系の単語

気になったことあれこれ。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン


KAエスマ文庫

出版においては、京都アニメーションのスタッフと担当作家の打ち合わせによる編集作業が入る。また、入選した作品の多くは京都アニメーションによりアニメ化されるが、アニメオリジナルキャラクターを複数追加する等、内容を大幅に改変されることが多い。


石立太一

京都アニメーション取締役


キャラ別花言葉

スミレ



石原立也

京都府舞鶴市出身
京都アニメーション取締役


名前が並んでいると不思議な感じがする


京都アニメーション

2016年9月、映画 聲の形が公開。本作は京都アニメーションとしては初となる、テレビシリーズを挟まない映画となった[3]。2019年3月期には、24億円の売上高を計上していた[27]

2019年7月18日、第1スタジオ(後節参照)で放火による火災が発生し、建物が全焼。国内の放火事件では平成以降最悪となる36名の死者(内3名は病院へ搬送後に死亡)を出し、33名が負傷、1名は無傷だった[28][29]同年度の第35期(2020年3月末)の決算において、2134万1000円の純損失を計上した[30]

原画等の紙書類は殆どが焼失したが、サーバルームは火元から遠くコンクリートで囲われていたことから被害を免れ、画像データは全て回収された。また、同年7月20日から8月31日まで徳島市書店小山助学館本店で京アニ原画展「私たちは、いま!!特別展」が企画されており、事前に貸し出されていた原画70点は被害を免れている。

事件発生前日に完成していた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-』は予定通り公開されたが、続く『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は公開延期、『劇場版 Free!-the Final Stroke-』は制作時期の白紙化が発表された。

その後、『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は新型コロナウイルス感染症の流行拡大を経て2020年9月に、制作が再開された『劇場版 Free!-the Final Stroke-』は2021年にそれぞれ劇場公開された。



舞鶴市

地名の由来

元来この地域は「田辺」と呼ばれていたが、明治時代に山城(現・京田辺市)や紀伊(現・和歌山県田辺市)にある同名の地名との重複を避けるため、田辺城の雅称である「舞鶴城」より「舞鶴」の名称が取られた[1]。田辺城が「舞鶴城」の別名を得たのは、城型が南北に長く、東の白鳥峠から眺めるとあたかも鶴が舞っている姿のように見えるからであるとされている[2]

地形

山地
舞鶴市の周辺は丹波高地が広がり、代表する山岳には、福井県との県境部に位置する青葉山があり、「若狭富士」の異名をもつ。市域にはほかにも宇野ヶ岳赤岩山など600メートル級の山々が連なっている[3]

歴史

先史
市内でもっとも古い遺跡は由良川沿いにある志高(しだか)遺跡で、縄文時代前期初頭の土器が出土している。 市内の縄文時代前期の遺跡としては、同じく由良川沿いに地頭遺跡・和江遺跡があるほか、大浦半島にも浦入(うらにゅう)遺跡がある[10]。 縄文時代中・後期には入植が市内全域に広がったとされ、東舞鶴の朝来(あせく)遺跡や西舞鶴の今田遺跡などが見つかっている。浦入遺跡からは丸木舟の遺構が発見されており、隠岐産の黒曜石北陸産の蛇紋岩製耳飾りなどが見つかっていることから、当時舞鶴に住んでいた人が海を介して遠隔地の人と交流していたことが分かっている[11]


弥生時代には志高遺跡をはじめとして、由良川の自然堤防上に複数の集落が形成され、水田の開発も市域の周辺部にまで広がっていった[11]。志高遺跡からは銅鐸や銅剣形石剣が発見されており、当時豊作祈願や、収穫を祝う祭礼が執りおこなわれていたと想像されている。また、当地では方形周溝墓や貼石墓、弥生時代末期になると方形台状墓が作られるようになった[12]

近代・現代

1872年(明治2年)の版籍奉還後、田辺藩は紀伊田辺藩との混同を避けるために田辺城の雅称「舞鶴城」より「舞鶴藩」に改名された[30][23]。舞鶴藩は廃藩置県ののち1876年(明治9年)に京都府に編入、1880年(明治12年)に加佐郡役所が置かれた[23]

1889年(明治22年)には舞鶴湾に日本海軍の基地が設置されることが決定、舞鶴港は軍港になることになった。周辺地域では実測183町(およそ1.81 km2)の土地が買収されたが、対象地域の農民には移転先の問題を含め、多大の犠牲がもたらされることとなった。1901年(明治34年)には正式に舞鶴鎮守府が発足し、日本海側唯一の軍港である舞鶴は重要な軍事基地となった[23]。中舞鶴・東舞鶴はこのときに計画的な都市設計が行われ、海軍の枢要地としての陣容が整えられた[31]。舞鶴鎮守府はロシアの日本侵入を防ぐために作られたものであり、1905年(明治38年)の日露戦争終戦を受けて同港の最重要目的は達成されたものの、1904年(明治37年)の鉄道開通により同市が陸海上交通の結節点となっていたこともあり、市の人口は増え続けた[31]ワシントン海軍軍縮条約にともなう軍縮により、1923年(大正12年)に舞鶴鎮守府は一時廃止され、規模も縮小されたが、1939年(昭和14年)には太平洋戦争にともなう軍備拡張のため再指定されている[5]戦争末期の1945年(昭和20年)7月29日にはアメリカ軍により模擬原爆が投下され97人が死亡、翌日には舞鶴港に停泊していた艦船が攻撃を受け、83人が死亡した[32]


戦後舞鶴は引き揚げ港に指定され、1958年(昭和33年)の引揚援護局閉局までにソ連満州、朝鮮などから帰還した邦人66万4531人、遺骨1万6269柱を受け入れたほか、中国に3936人、朝鮮に2万9061人を送還している[5][33]鎮守府の解体により多くの市民が生活基盤を失ったが、1950年(昭和25年)の旧軍港市転換法が制定され、新たな産業の創出が押し進められた。具体的には、旧海軍工廠の施設を利用した造船業鉄道車両の製造などが行われたほか、軍需工場であった繊維工場が再開され、くわえて化学肥料工場とガラス工場の誘致が行われた。また、木材を輸入して木製品・家具を作る産業が発展した。しかし高度経済成長期の終焉とともに造船業・繊維業などが構造的不況に陥り、企業城下町的経済体制のもとにあった舞鶴市は特定不況地域中小企業対策臨時措置法・特定業種関連地域中小企業臨時措置法・特定地域中小企業対策臨時措置法などの下でこうした構造的不況に取り組んでいくこととなった[34]

1950年(昭和25年)に警察予備隊が創設されると舞鶴にも駐屯が始まり、1952年(昭和27年)には警備隊舞鶴地方隊が編成され、舞鶴地方総監部・舞鶴航路啓開隊などが発足した。その後1954年(昭和29年)には自衛隊が発足し、警備隊舞鶴地方隊は海上自衛隊舞鶴地方隊に改称された[35]

海上自衛隊は、旧軍の用地をほぼそのまま利用しているが、旧軍用地の一部は公共施設や宅地、国道になっている。東舞鶴西部に所在する赤レンガ倉庫は、いずれも旧軍が建設したものであるが12棟が現存、8棟は国や市の文化財となり、博物館や観光施設に改装されている棟もあり、自衛隊基地と併せ貴重な観光資源となっている。なお、残る4棟は現在も海上自衛隊が倉庫として使用中である。


舞鶴市制70周年

「加佐」は「田辺」
軍部が「大舞鶴」の誕生を強く要請するようになり…
1953年、市制10周年

・民間テレビ放映開始
・白鳥トンネルの開通
・引揚線の入港再開
・台風13号による被害

1963年、市制20周年

・「鉄腕アトム」放映開始
・関西電力の黒部川第四発電所が完成
・ケネディ大統領暗殺
・力道山が刺される
・新庁舎完成(東西融合の歴史)

1973年、市制30周年

・浅間山噴火
・オイルショック
・固定相場制から変動相場制へ
・日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件
・アメリカ 地球観測衛星「ランドサット1号」打ち上げ
・金大中事件

1983年、市制40周年

・田中元首相に実刑判決
・日本海中部地震
・三宅島大噴火
・大韓航空墜落事件
・東京ディズニーランド開園
・ファミリーコンピュータ発売
・NHKドラマ「おしん」が人気に

1993年、市政50周年

・EU12ヵ国発足
・皇太子と十和田雅子さんご成婚

※「市制」から「市政」に漢字が変わったのはなぜだろう?「制する」ことから「まつりごと」へ?

2003年、市政60周年

・イラク戦争開始
・日本郵便公社発足
・住民基本台帳ネットワーク本格稼働
・十勝沖地震発生
・米国 BSE感染を発表

律令以来ひとつにまとまってきたのは福知山市(天田郡)と舞鶴市(加佐郡)ぐらいです。



福知山市

市域は旧丹波国天田郡を中心とし何鹿郡(佐賀村の一部)と丹後国与謝郡(雲原村)と加佐郡(大江町)に広がり、市域面積の76%は林野が占め耕地面積は7%程度で[1]、綾部市から続く福知山盆地を中心とした平地、それをとり囲む市域面積の大部分を占める山地で構成される。

この地ではかつてさまざまな鉱物が産出されており、特に大江山は金属鉱脈が多く河守鉱山では鉱・黄銅鉱硫化鉱クロム鉄鉱鉱が、また仏性寺鉱山ではモリブデン(水鉛)が採掘された。また、上川口地区の富国鉱山は国内有数のビスマス鉱山であった(なお、大江山ニッケル鉱山は、与謝野町域にあたる)。
このほか現在廃坑となっているいずれの鉱山も、京都府レッドデータブックに登録[10] されており、坑道の整備、保存の必要性が叫ばれている。

但馬牛(丹波牛)の集散地としてや、以前から行われていた由良川河畔での桑の栽培が盛んに行われるようになり軍需産業としても養蚕業が栄え繊維関係での中核地として栄えるようになる。

このとき日本は日露戦争を控え、京阪神と日本有数の軍港である舞鶴港をつなぐ交通網の普及が急がれたことから、福知山はその中継地点として国鉄福知山線山陰本線の敷設が行われた。同時に旧陸軍歩兵第20連隊は、このときから現在の福知山駐屯地に駐屯するようになる。

御霊神社 - 福知山城主朽木氏が宇賀御霊大神に明智光秀の合祀を許した神社。現在は当時の位置より西に移設されたもの

元伊勢伝承の神社

皇大神社(元伊勢内宮) - 現伊勢神宮内宮より50年以上前の創建との伝承があり、全国でも数例しかない黒木の鳥居(皮を剥がないままの杉木で組まれた鳥居)が特徴的である。

●豊受大神社(元伊勢外宮) - 現伊勢神宮外宮の元宮との伝承があり、皇大神社同様黒木の鳥居がある。

●天岩戸神社

●大原神社 - 「大原の産屋」(京都府指定有形民俗文化財)

●一宮神社 - 丹波と丹後の国境を守る神様が祀られており、福知山藩の鎮守としても栄えた神社である。


加佐郡の地名

どこかでカサ地名が保存されればいいので、何もこれに別に文句をいうのではない。どうか末永く大切に使ってほしいと願うが、ここで私が問題とするのは、はるか古代に最初に発生した本来の場所のカサは本当にここを指していたのかという点である。これをずいぶん疑問に感じていた。

 失礼ながら「加佐」地区とカッコをつけさせてもらうが、その現在の「加佐」地区は郡内唯一の式内大社を有する地区であり、由良川水運を担うまさにその場所である。古来より大切な地区であった事は事実であるが、しかし古代のカサはここを指さないと私には思える。

 地名は単独では存在しない。柳田国男だったと思うが、そんな事を書いていた。そうなのである、たいていは地名や神社名のセットで、群としてかなり変形したいくつかの形で、ぼやっとある範囲にひろがってあるようである。
 現代の「加佐」地区にはカサもその関連地名も見あたらない。

ではどこが本来のカサなのか。結論から書けば簡単な事で、私は笠水うけみず神社(西舞鶴地区の公文名に鎮座。カサミズとは読まず、ウケミズと読む。どうしてもそうは読めないと思う。私はカサミズとかカサノイズミと読むのが本来だと思っている)。この笠水の笠こそが加佐の地だと断じる。

笠水うけみず神社(舞鶴市公文名)


この問題は、かつて誰も取り上げたこともないようで、どの文献もこんな事を取り上げたものはない。本来の位置も考えずに、いきなりカサの意味を理解しようとしたりもしているが、そんに事はできない相談ではないか。 その地名のある地域と名付けられた時代を考慮に入れるという当然のことをしないと、とんでもない説が生まれてしまうことになる。


カサの意味をどう理解してきたか

カサの地名は現在にまでも残っているのだが、その地名の歴史と意味は忘れられてしまった。
では、カサの郡名を先人達はどう理解したであろうか。二三紹介してみたい。

 『丹後風土記』残欠はウケのこと。豊宇気とようけ大神のウケである。この女神が田造たつくり郷の笶原やはら・やぶ山に鎮座あったのでウケ郡といった。そのウケを笠と書いたのだが、事情を知らない者が笠の漢字はカサと読むので、いつの間にかカサとなったとする。
 『丹後旧語集』は豊受大神の神座(カミクラと読むのでなく、カミザと読むのか。カミザ→カサ)のこととする。

 『加佐郡誌』この二つを紹介した上で、異説二として、「本郡は、雨量多く、殊に時雨など甚だよく来る故、雨を防ぐ具の大切な処といふ意で、笠と名付けたといふ。」も書き加えている。

 先人達もカサ地名が理解できないで、ずいぶんと苦労している様子である。いずれもかなり無理なこじつけ説であろう。
先人もわかっていないということ、ただ丹後の豊受大神との関連、『風土記』残欠の田造郷(田辺郷)が、その中心地の笶原山(現在は愛宕山と呼ばれる)の山麓付近がカサの本地だとするのは深く記憶しておきたい。

田造郷は先の『丹後風土記』残欠や国宝の海部氏の「勘注系図」、『和名抄』刊本に見える。高山寺本は田邊たなべ郷とする。
田造郷と田邊郷、同じ所を指しているのだが、どちらが本当なのか、前後関係があるのか、わからないが、中世以降、現在も田邊城とか呼んでいる。
残欠の記事に従えば、田邊史とか氏族名には関係なくて、田というのは豊受大神の神饌用の田、その田を造った所、あるいはその田の邊という意味になる。正確な郷域はわからないが、だいたい西舞鶴地区の西半分を占める地域であり、近世に城が築かれていた点からみても加佐郡のセンターに当たる地域である。
東舞鶴地区の高橋郷(刊本)と椋橋郷(高山寺本)のように、同じ郷なのに同じ『和名抄』に異なる名が書かれている。どちらかが誤写などとは簡単にはいえない。両方の呼び方があったと思っておくより仕方がない。

現代人は単純で、「真実は一つ」などと思い込むが、そういったことはない。中学校数学問題にすら複数の解があるものもある、0÷0のように正解がありすぎる問題もあれば、1÷0のように正解が一つもないものもある。正解の数は問題によるのであって、解きもしない最初から、答えは一つ、従ってどちらかが正しく、他方は誤りなどと簡単に思い込んではなるまい。

地名の意味については一般に不明とされる。カサという地名や氏族名は全国的にはほかにもあるが、西隣の與謝郡から分かれたの説もあるが、意味もそこと同じような意味をもつ渡来語と思われ。

なお京都白川家に伝来したと称する「丹後風土記」残欠は、カサ地名の由来について、

〈伽佐郡(かさのこほり)伽佐郡は旧くは、笠郡の字を用いて、、宇気乃己保利(うけのこほり)と読んでいた。宇気(うけ)と称する所以は往昔、豊宇気大神(とようけのおおかみ)が、田造郷笶原山に留まり座して、人民等は其恩頼を受けた、故に宇気(うけ)と曰う。笠は一に伽佐(かさ)と読む。今世に、あやまりて伽佐乃己保利(かさのこほり)と曰う。
〉 

カサではなく、本当はウケで、、その「宇気」とは丹後にゆかり深い豊宇気大神のウケだというのである.、しかし「笠」は「かさ」と訓じるので、のちに誤って「加佐」と記すようになったとする
ホントがどうかはわからない、そうした遺称地名もないが、まるっきりの作り話でもないのかも知れない。
しかしそのウケにしてもまた渡来語である。

『記紀萬葉の朝鮮語』(金思火+華)に、

 〈 「うけ」(宇気)という語は、「食事、食べ物」の意であるが、朝鮮語の「ウケ」は「稲の実、租」の意である。 〉 

豊受大神の古い姿とも思われる大宜津おおげつ姫命、その神様について、『地名・苗字の起源99の謎』(鈴木武樹)は、

 〈 大宜都比売は「オホウケツヒメ」の短縮形で、「オホ」は尊称、「ウケ」は「ウカ」ともいって、朝鮮古代語と倭国語とに共通の「穀物」を意味する単語、「シ」も、同じく朝鮮古代語と倭国語とに共通の「の」を表わす繋辞である。つまり、大宜都比売は、現代日本語に翻訳すれば「大いなる食物の女神」というほどの意味になる。 〉 

昔、丹波の保津峡は受田うけた峡と呼ばれていて、近くに請田うけた神社がある。丹波国立国の開鑿伝説に出てくるところで、今の丹波という地がどうした人々によって開発されていったかがわかる。

神武東征伝説にある、奈良県の莵田県の首長と思われる兄猾えうかし・弟猾おとうかし(兄宇迦斯・弟宇迦斯)のウカシについて、同書は、

 〈 【宇賀志】大野晋ほか著『岩波古語辞典』によれば「ウカ」は「ウケ」の古形で『食物』の意味だという。
「シ」は「ヒムカシ」「ヒノタタシ(経線)」、「ヒノヨコシ(緯線)」などの「シ」で「場所」を示す言葉か。もしそうだとすれば「ウカ」・「シ」ともに朝鮮古代語系の単語である。 〉
 

ウダ・ウタというのもウカの転訛かも知れないが、お稲荷さんも宇迦之御魂大神(倉稲魂神)などと言い、たいていどこの社でも末社に加えられて祀られている。

意外かも知れないが、この国の立国の秘密が隠されているような朝鮮の地名と神様ばかりの国のようである。


パンプキン爆弾

正式名称は「1万ポンド軽筒爆弾」。「ファットマン」とほぼ同一の形状を有し、質量もファットマンとほぼ同一になるよう調整された模擬原爆で構造分類上での通常型爆弾コードネームである。マンハッタン計画に携わる、ロスアラモス研究所の科学者と兵士によって命名された。

この爆弾は原爆投下に備えた爆撃機乗員訓練のためと、今までに例のない特殊な形状をしたファットマンが爆撃機(原爆搭載可能なように特別に改修したB-29)から投下され爆発するまでの弾道特性・慣性能率等の様々な事前データ採取のためにいわば「模擬原爆」として製作された。

構造

ファットマンとパンプキン爆弾の内容物を除く主な相違点は、爆弾前部に取り付けられた触発信管の数(ファットマンは4基、パンプキン爆弾は3基)とファットマンを起爆させるためのレーダー・無線装置の有無と爆弾外殻の組立方式(ファットマンはボルト結合、パンプキン爆弾は溶接結合)の3つである。

パンプキン爆弾は内容物によって2種類が存在し1つはTNT火薬を主成分とした高性能爆薬を充填したタイプ、もう1つはセメントや石膏を用いたコンクリート混合物が充填されたタイプであった

いずれのパンプキン内容物もファットマン原爆の内容物球体コア(プルトニウムと、それを核分裂させるシステム。爆縮レンズ)とほぼ同一の形状・比重・質量配分になるよう調整され、爆弾内部のコア配置位置も全く同じとされた。これにより、原爆投下行動に対する有効な事前データが採取できたといわれる。

パンプキンの総質量は約4,800kg、内部の爆薬またはコンクリートが約2,900kg、爆弾外殻(鋼鉄製)などのその他の構造物が残りの質量を占める。

7月26日9時26分には大阪市東住吉区田辺で投下され7名が死亡、7月29日には京都府舞鶴市で97人が死亡した。また同日、東京都西東京市柳沢に投下され、3人が死亡、11人が負傷した。[5]

1945年8月8日午前8時40分四日市市千歳橋付近に着弾、死者2名、負傷者56名。





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