見出し画像

山との距離、、人との距離間

山との距離感

わたしの住んでいるところには連なった山々があって、その姿が視界にはいるたびに、美しい稜線や存在感に目をうばわれる。

先月はひさしぶりに遠くの場所まで足を運ぶことができた。
その場所に向かっている道中には新幹線や電車の車窓からひたすら外の景色を眺めていた。
自分が今住んでいる場所よりもすてきな場所が見つかるかも、そんな楽しみな気持ちで眺めていたものの、意外と自分の望む景色はないものなのだと知った。


着いた場所は山に囲まれた盆地だった。
ぐるりと山に囲まれている。
それが見渡すだけでよくわかる。
人は温かくすてきな場所だった。
それでいて外から人が入ってこなければ閉塞的な場所でもある。

いつも魅了されている山と何がちがうのだろう…と考えていた。

たぶんいつも眺めている山は、広がりを感じさせてくれるのだと思う。
「この先には何があるのだろう」そんなワクワクを与えてくれる。

盆地という最初と終わりの見える山々を見ていて、すべてが見えてしまっているのは、答えがわかってしまっている状態なのは、休息にはとてもいい場所だけれど自分が住む理由にはなり得ないのだということがわかった。

山を住む場所のひとつの条件としてひたすら眺めていて思ったのは、今住んでいる場所の「山と自分の距離間」が理想的であるということ。

目線を上げればそこに美しい山がある。
そして目線を左に移せば素朴な山もそこにはある。
魅了する山と安心感をくれる山。

近すぎることもなく、行こうと思えば思い立ってからでも行ける距離。
自分にとっては理想的な距離。

この山と自分との距離間は、人に対しても同じだなと思った。
人と近すぎないこと、広がりを感じられる関係性であること、会いたいときに会える距離であること。

今回違う場所に行って気づいたけれど、物理的な距離は自分にとっては負担にならない。
その道中もいろんな発見があって楽しめるから、物理的な距離はあまり関係ない。
自分にとって山との理想の距離間は、人に対する理想の心理的距離感なんだと思う。


コミュニケーション

人の興味がこちらに向いてないとわかると、途端に話すのをやめてしまう傾向にある。

言葉のキャッチボールが楽しめないと思うと、受け取ったり聞き流したりでいいや、ときりかえる。

それは話す意味はないんだな…と思うからなのだけれど、自分のなかの傲慢さというよりも「この人は会話をしたいのではなく、ただ喋りたいだけなのだ」と気づいてしまうからでもある。

コミュニケーションをとりたいわけではないのだと知って、少し寂しい気持ちがわいてきて会話自体をあきらめてしまう。

会話って双方に受け取る意思が必要で、片方が受け取る意思がない場合、言葉はすべり落ちていく。

受け取られずに落ちていく言葉が感じとれるから、無意識に相手に言葉を投げてその反応をみて会話の仕方を変えるところがあるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?