見出し画像

足がつった!!必死になおそうとしていたけれど… /アランの幸福論

拍子抜け

知ったときに拍子抜けしてしまうことがある。

えぇ〜?!
今まで一生懸命やっていたのはなんだったのか。
なぜ一度も疑問に思わずそう思い込んでやってきたのか。

信じきっていたことがなんだか滑稽に思えて、あとからじわじわ笑いが込み上げてくる。

ふくらはぎがつると足の指を手で押さえて脚をぐーんとのばすのが当たり前のなおしかただった。

子どものときに知ったそのなおしかたは大人になってもずっと自分の当たり前だった。

それがあるとき、「足がつってもそのまま待っていれば自然となおるよ」と言われてマスオさんのような反応が出た。
「なおるまで待つ」という選択肢が予想外すぎてそんな選択肢があったこと自体におどろいたからだ。

それからしばらくしてその時がきた。
足がつり痛かったのだがそのまま様子を見てみることにした。
つっている場所は硬く強張っている。
それが時間が経つにつれて強張りがほんの少し解けてきた。
3段階くらいで徐々に解けていって、最後にはロックが解除されたように急に完全に解けて緩んだ状態になった。
最後のほわーんというかにゅ〜んというかその解け方がその動きが見ていて興味深かった。

おもしろかったのは、痛みに注目せずにつった場所の観察に集中したら耐えられない痛みではなかったこと。

もしかして、これまで思考によって痛みを強めていたのだろうか。
それとも、今回は意識が分散することで痛みが軽減したのだろうか。

痛みや焦り。
それらによって不安にかられ、あわてて行動をとることがどれほどあるのだろう。

どうしかしなければ!という焦り。
自分で自分を脅してしまうのはなぜだろう。

一呼吸おいて観察してみる。
ひとまず現状を受け入れてみる。


実際はついつい現状に抗って流れを断ってどうにかしようとしてしまう。

無性に押し込めたくなったり、抗いたくなってしまうのはなぜだろう。

自分ではまだ気づかない恐れや思い込みがありそうだ。
そこには自分が本当に欲していることが隠れているが、なかなか自分では捉えることがむずかしい。

自分のまわり(状況)を見渡せば、人間は自分の欲してきたものが何であるかが分かるのです。



🔹アランの幸福論

2021年5月に書いたnoteになんとなく目がとまった。読み返したらおもしろかった。
書いた内容はすっかり忘れていたし、こんなこと考えてたのかと同じ人物に思えなくてなんだかおかしな気分。

こちらも再度読み返してみた。
以下気になったところの連なり。

七、自己暗示
占いが当たるのは、第一に、占い師自身が些細な兆候(データ)を読み取り推論する能力に長けているからです。
[例えば、名探偵コナン君は、他の人の気付かない些細な兆候から、過去と未来を推理し見事に当てます。「あの人を殺したのはあいつだ(過去推理)」とか、「次はあの人が殺される、助けなきゃ!(未来推理)」とか。そういう能力です。]


第二に、自己暗示によって、占われた人のその後の生活が、占いの結果の方へ引っ張られてしまうことです。
[スポーツ選手のイメージトレーニングなども、この原理を含んでいます。]

だから、医者が患者に病気を宣告する時、患者は二重の意味で病気にかかってしまうのです。
身体的な意味での病気は、その医者が治療してくれます。
しかし、自己暗示やイメージによって生じた病気は、治してはくれません。
「あなたは虚弱体質です」と宣告されれば、今まで何でもなかった作業で、疲れ果ててしまうことになります。

眠れないことを怖れる者は、眠れない自分のイメージによって、自分を眠らせないのであり、羊をイメージすると眠れるのは、羊が眠れない自分のイメージを押し退け、眠りに適した状態に入らせるからです。

だから、普段、病気のイメージを持つよりも、健康なイメージを持って生活する方が、より健康に成れるのです。
背筋を伸ばして、余裕を持って、折り目正しく親切な、そういう健康にふさわしい運動や立ち居振る舞いが、健康を作っていくのです。

八、肉体の力
外科医の鞄には、気付け薬(ラム酒)が入っています。
それは手術を目の当たりにした付添い人が失神することを防ぐためです。
目の前で誰かの腕がメスで切られるのを見ると、人は自分の腕をこわばらせ、顔をしかめます。
私と患者は別の人間であると理屈では分かっていながら、それを止めることはできず、思考は無力です。

人間が人間の前にいるだけで、互いに対し、強い影響力を与え合い、誰かの怒りは別の者の怒りへと伝染し、連鎖しながら周囲に広がります。
「同情とは、相手の立場に自分の身を置いて見ることだ」と心理学者は言いますが、そんな反省の前に伝染は起こってしまっており、それは後出しジャンケンのような下手な説明です。
ここにおいて身体は、思考を介さず、瞬間的に身体同士でつながるのです(
メルロ=ポンティの項を参照)。
肉体から切り離された魂は、高邁で情に篤いものだと思われていますが、実はその逆で、肉体をおざなりにするからこそ、人は同情や共感する力を失うのではないでしょうか。
思考よりも、肉体の方が高尚です。
肉体は思考によって苦しみますが、行動によって癒されます。
本物の思考が乗り越えるべきものは論理の問題ではなく、この事実です。
ここにおいて重要なものとなるのが、具体物によって観念を表す「隠喩」なのです。
[なぜ、アランがひたすら具体例のみで、彼の哲学を記述するのかがよく分かります(抽象的に書いた方がはるかに楽なのに)。]

九、不幸の本性

恐怖や苦しみのほとんどは、想像によるものです。

明日の予防注射に怯える子供は、その時の状況を想像し、膨らませ、客観的にはしっぺ遊び以下の痛みしかないはずの注射が、逃げ出したくなるほどの恐怖に変わります。
コミュニケーションの苦手な者は、飲み会で孤立する自分の姿を想像し、憂鬱になります。
しかし、実際に参加してみると、結構楽しく、帰りは「行ってよかったな」と、少しご機嫌な自分を発見します。
人は自分の想像によって作り出した苦しみや恐怖によって、自身を不幸につなぎ止め、人生において大切なものを得る機会を、失ってしまうのです。

現実の不幸は、あっけなく、淡々としており、想像によって悲劇のワンシーンのように劇的に色付けていたそれは、一瞬で色褪せます。
病気を恐れるのは健康な者だけであり、貧困を恐れるのは富んだ者のみです。
病気や貧困そのものの中にいる者は、ただその瞬間を賢明に生きているだけであり、その状況が恐ろしいものだなどと怯えてはいません。
それは死についても同じことです。


十二、身体から心を制御する(その一)
動物と違って人間には、思考と情念と言うものが存在します。
その分、人は、調子を崩しやすいのです。


急な坂道があったとします。
馬は文句も言わず、ただ上っていきます。
しかし、人間は、想像力がはたらき、その状況に息がつまり、イライラします。
急な坂道を登る時に身体は、大きく息を吸って、落ち着いて、上りはじめる必用があるのに、思考はその反対のことを(息を止め、そわそわ)しはじめます。
身体と状況が調和した馬と違い、そうやって調子を崩す人間は、ほんの些細なことにでも、疲れ果ててしまいます。


身体を柔軟にすべきところで、人の思考や情念は身体を硬直させ、背筋を伸ばすべきところで、うなだれます。
悲しみには悲しみに適した姿勢や動作、怒りには怒りに適した動作があるように、人は自身で勝手に生み出した想像に身体を従わせることで、不調和な姿勢と動作を作り出し、それを維持しようとします。
悲しみに囚われる人は、悲しみの姿勢をとり続けることによって、さらに悲しみの鎖を強化し縛りつけます。


礼儀というものは、この教訓から生じたものです。
心の落ち着いた人の姿勢や動作を、身体に真似させることで、身体の方から心に働きかけ、落ち着かせようとする技術です。
緊張して困る時は、リラックスした休日の昼間のように、大きく伸びをして、あくびをすれば、緊張はほぐれます。
いつも笑顔を絶やさず生きている人は、少なからず、その人の心や人生を、身体の方から幸福にしているのです。


二十八、求めれば、必ず得られる

誰でも求める物を得ることができます。
金持ちになりたいと求める者は、誰でも金持ちになれます。
もし、手に入らないなら、本当はそれを求めていないからです。


自分はお金を求めていると考えながら、(出世や儲けを約束する)上司や取引先に対してお世辞を言うことを拒み直言を選ぶなら、その人はお金を求めているのではなく、正直さや自尊心を求めていることになります。
自分はお金を求めていると言いながら、今日という日を無駄に過ごし休む人は、お金ではなく安楽を求めていることになります。


きれいな商売を求める人が、破産しても仕方ありません。
なぜなら、彼はお金より、道徳的なきれいさを求めていたからです。
拝金主義の成金が、破産しても仕方ありません。
なぜなら、彼はお金を得ることより、それを浪費し見せびらかすことを求めていたからです。


こうして、誰でも求める物を得ることができるということが、証明されます。
手に入らないのは、本当はそれを求めていないからです。


仮に私が孤独の中で死に瀕しても、満足すべきなのです。
意地になって故郷を捨てた若い頃の自分、将来の苦労を考えて結婚の機会をあえて捨てた自分。
私は人とのつながりより、自分のプライドや気楽さを求めて孤独を選び取ったのであり、孤独な死というものは、私が人生において求め続けたものの最終的な帰結なのです。

二十九、欲望は現実化する

その人の環境というものは、その人自身に合わせて作られています。
自分の身体の形に合わせて巣穴を開けるネズミのように、自分に合わせて欲した形で環境を作っています。


平均的な年収の私は、それ以上に頑張ってお金を得るのはしんどいけれど、もっと楽に生きて浮浪者のようにも成りたくない。
あくまで今あるこの程度の頑張りを欲しているのであり、その欲望を実現したものが、平均年収という状況です。


平均年収の私は、「もっとお金が欲しいと思っている」と思っています。
しかし、私が本当に欲しているのは、「もっとお金持ちになること」よりも、「これ以上頑張りたくない」という安楽の約束なのです。


自分を取り巻くあらゆる事物(状況)に、自分自身の刻印が押されているのであり、散らかった部屋に住む者は、自分の散らかった特質を実現し、整頓された部屋に住む者は、自分自身の整頓された特質を事物に反映させています。
自分のまわり(状況)を見渡せば、人間は自分の欲してきたものが何であるかが分かるのです。

三十、人間の順応力を阻害する思考

習慣の力は強力であり、それを変えることは至難の業であると思われています。
しかし、これを至難にしているのは、習慣そのものではなく、単なる「思い込み(想像)」です。

今、安住する習慣への愛着や確実性や安心感、引越し先の習慣に対する知識の欠如や不確実性や不安、そういうものが強固に「私は変われない」という確信(思い込み)を生じさせ、その想像が私を物的にも変える事を拒むのです。

例えば、私は、パソコンのOSの変更の度に、「今使っているのがいい、絶対変えたくない」と思いながらも、強制的に変えられて新しいものをしばらく使うと、「こっちの方がいい、前のは使えない」と思うようになります。
もし、サポート終了という外的な強制力がなければ、私は永遠に古いOSを使い続けることでしょう。

人間の順応性や適応能力というものは、非常に高く、新しい環境にすぐに慣れます。
その人間本来の力である変化や慣れや順応を阻害しているのは、狭隘な思考(偏見-イドラ-)です。
人間や社会は、そういうイドラによって牛耳られているため、習慣から自由になれないのです。


その思考を変えられるのは、思考ではなく、行動です。
行動によって、はじめて新たな思考が生ずるのです。


「ソーシャルゲームのない生活なんて絶対に無理だ」と思考する前に、ソシャゲのない生活を始めてみることです。
その行動はしばらくすると、「別にソシャゲがなくても楽しく生活できる」という新たな思考を生みだします。

三十六、感情は受動ではなく、自ら作っていくべきもの

私たちは、仕事やお金儲けにおいてはシビアであり、最初の印象だけで物事を判断することはありません。
各瞬間ごとに与えられる物事を単なる印象ではなく、有益な情報として、判断し、評価し、適正を見極め、物事と自分とのより生産的な関係性を結べるよう、制御します。


しかし、私生活や一般的な事柄においては、そうでなくなります。
最初に見た印象や、直接的に生じた感情を鵜呑みにし、何の判断も意志も介さないまま、物事を動かしていきます。
まるで変えられない自然現象のように、印象と感情の天気に流されるだけです。
印象だけで誰かを愛し、一時の感情だけで別れ、判断すればすぐに気付くようなちょっとした見誤りで、他人や自分を傷つけてしまいます。
寝起きの寝ぼけまなこで、コーヒーに、判断も介さず印象だけで砂糖を入れたつもりが、塩であり、顔をしかめてしまうようなものです。


思考や感情というものは、本来、意志や行為によって自分のものとして「作られていくもの」であり、単に外から与えられる受動的なだけのものでも、自己完結したものでも、固定したものでもありません。

私の目の前に現れた感じ(印象)の悪い人に対し、その最初の印象と、最初に湧き上がった感情のみを決定項(変わらぬもの)として、受け入れれば、砂糖と塩を見誤るように、私にとって大切な人を、拒絶することになるかもしれません。
私はその印象や感情を、思考と意志と行動によって吟味すれば(例えばランチに誘って話してみる)、その人は最初の印象とはまったく違う人物であることが分かり、私の持つ感情も変化します。
いま、私を取り巻くものに対して持つ印象や感情は、寝ぼけまなこで見、受動的に受けただけの夢想でしかなく、私はそれに意志や行動を介在させ、自分自身の観念や感情として、作り変えていかねばならないのです。

三十九、いつ、どこでなすべきか

朝、私は起き、ベッドの上で20分ほどダラダラしながら、今日の仕事のことなどを考えているうちに、遅刻ギリギリになり、大急ぎで駅へ向かいます。
ゆっくり時間を楽しみながら前を歩いている観光客にイライラし、心の中で「朝の五分は、お前らの一時間より貴重なんだぞ!」と、愚痴ります。
20分の考え事を、ゆっくり通勤しながらすればよいだけなのに。


別の日、私は電車に乗っています。
目の前の車窓というスクリーンに、美しい田園の風景が流れているのに、私はただ、ヒマそうにあくびをしたり、興味もないのに前の客の新聞記事の裏を読んだり、カバンを開けたり閉めたりしています。
目的の駅に着き、映画館に入り、私は作りものの美しい風景描写の映画に、感動し涙を浮かべています。


雑誌で見た厳島神社に興奮し、旅行計画を立て、現地へ飛び、私はスマートフォンのカメラ越しに被写体としての厳島神社を覗き、家に帰ってそのコレクション写真を見返して、悦になります。
一度も現実の厳島神社に出会うことなく。


それは今なすべきことなのか、それはここでなすべきことなのか、適切なタイミングやコンテクスト(状況)を省みない私は、人生の大半の時間と経験を無駄にしています。

四十、過程がすべて

人間の幸福感というものは、何かを欲し、意志し、行動することそのものの中にあります。
野心家は、目的となるもの(金、名誉、権力など)が自分を幸福にしてくれると思っていますが、いざ、それを手に入れると、それは色あせ、やがて耐え難いものになってきます。
そして、新たな目標をたて、また意志と行動の旅に出ます。
戦争が、日々の具体的な目標のない有閑人たちによって引き起こされるのは、こういう理由です。


「野心を持たずに満足し平穏に暮らせ」と言う賢人は、「欲するな、意志や行動を捨てよ」と言っているのではなく、小さなものに希望を見出せ、と言っているのです。
毎年のツバメの巣作りを手助けしたり、家庭菜園のトマトを楽しみにしたり、週末の釣りの釣果に期待したり、子供の笑顔を働き甲斐にしたり、小さく欲し、小さく意志し、小さく行動すれば、大きな賭けに出るリスクを回避しながら、人間の行動に宿る幸福感を享受できるからです。


金や名誉を軽蔑することは、簡単なことです。
問題はそれを求めなくとも、退屈せず、充実して生きられるだけの智慧が必要だということです。


四十二、四十四、本当の幸福

人間は苦しみを嫌うものだと思われ、そして、苦しみこそが不幸だと思われています。
しかし、そうではありません。


例えば、重い荷を背負って山を登らされる奴隷の苦しみは嫌われますが、登山家が重いザックを背負って登る苦しみは好まれます。
外的な状況により飢餓や貧困が強制される時、人はそれを嫌いますが、自分の意志によって仲間のためにあえて空腹や貧しい状況に飛び込む時は、それを好みます。


実のところ私たちは、快楽を求め苦痛を嫌っているのではなく、自由を好み、隷属を嫌っているのです。
人間は自分自身の主体的な行動(意志の自由)を求めており、それが幸福なのであり、幸福は、快楽や安楽や物的な豊かさ(物の自由)によるものではないのです。
馬が躍動して駆けるように、自分の自発的な力の発揮と自発的な行動を望んでいるのです。


多くの楽しみを制限しながらお金を貯める守銭奴は、実のところ、お金を沢山持つことが幸福だから、それを集めているのではありません。
勝つために贅沢や食欲や性欲を我慢するボクサーのように、お金の量は、彼にとって苦難を乗り越えた自分の能力と行動を証す戦績であり、スコアなのです。
子供は立派な自分の部屋を与えられていても、自分で材料を集めて、自分の力で自分の秘密基地をこしらえようとします。
絵を描くことの大好きな子供に、絵を描くことを強制すると、絵を描くのが嫌いになります。
人は自分の力で幸福を作りたいのであり、その創造そのものが幸福なのです。


幸福とは、本の中ではなく現実の中につむぎだす詩のようなものです。
何らかのこうありたいというヴィジョン(詩/夢/目的)があって、それを行為によって実現する、その創作行為(ポイエーシス)そのものが、幸福なのです。


そのヴィジョン(詩)がどういうものであるかは、人それぞれに違います。
大金持ちになって世界一周のクルージングを優雅に楽しむこと、あえて貧しい世界に飛び込み貧しい人達と苦楽を共にし生きること、オモチャの収集で部屋を埋め尽くすこと、名うてのプレイボーイになること、燃え尽きるまで戦い抜きカッコよく死ぬこと等、何でもよいのです。


だからこそ、人は主体的な行動ではなく、隷属させられるような快楽には、幸福を感じず、哀しみや不幸を感じるのです。
お酒を飲むのではなくお酒に呑まれる人間、人を愛するのではなく愛に囚われる人間、レジャーを楽しむのではなくレジャーに駆り立てられる人間…。


人間の幸福は、自分で意志し、行動することそのものの中にしか存在しません。
行動の種類は関係なく、その行動を自分が支配している限りは幸福であり、服従している限り不幸なのです。
人間は与えられた楽しみには退屈し、むしろ自身の行動によって獲得される苦しみの方を選びます。


動かぬ流れは鬱血します。
鬱血は悲しみと苛立ちと不安を生じさせます。
その時、人間は、陰鬱と焦燥と不機嫌の中で、最も意地悪で破壊的な人間となります。
これが人間の不幸の正体です。

四十五、エゴイストの本性

エゴイストは言う。
「人間はただ、自分の快楽を求める生き物であり、人助けをする者も、酒やセックスを好む者も、そこから等しく快楽をえているだけであり、対象が違うだけで、根は同じである」と。


一見、もっともらしい意見ですが、見え透いた詭弁です。
彼はただ、人間行動を促進するものを「快」、抑制するものを「苦」と定義づけているだけなのであり、その本質は「行動」です。
これは、快だからやる⇔やるから快である、の循環論であり、名付け(言い換え)の問題です。
正確に言うと、こうなります。
「人間はただ、自分の行動を求める生き物である」と。


エゴイストは、誤った判断のために、幸福になれません。
なぜなら、隷属的なネガティブな苦しみを拒絶するために苦しみ全部を捨ててしまい、行動に必要である自発的なポジティブな苦しみまで一緒に捨ててしまうからです。
彼は山を登る運動なく登山を楽しもうとし、腹も減ってないのにご馳走を食べようとし、何の過程も経ない愛を得ようとし、走ることなくフィニッシュテープを切ろうとします。
快楽がための快楽を求め、快楽の中にありながら退屈し、飽き、快楽に吐き気をもよおし、本当の楽しみに出会うことなく、快楽という名の苦しみの絶望の中で死んでゆきます。


🔹ラッキーチャンス

めちゃくちゃおもしろかった!
嫌な感情やモヤモヤが起こるのが楽しみになった。
すぐに忘れちゃうから定期的に見返したい。

いろんなパターンで使えそうでおもしろそう♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?