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本と感情と体と

《個人的なメモ》
常に自分の中に溜め込んだ考えを確認してからでないと正しい動きにはならないという思い込みが、プレッシャーになって緊張をもたらしているのではないか。

体の知性を取り戻す


土木のおっちゃん

タバコが吸える昔ながらのガソリンスタンドの待合室で居合わせたおっちゃんと世間話をしていた。

電子タバコを吸っていたそのおっちゃんは配慮のためか、私がタバコを吸うか嫌ではないか、と尋ねた。

家族に電子タバコを吸う者も昔ながらのタバコを吸う者もいるので大丈夫ですよ、と私はこたえた。

土木の仕事をしているそのおっちゃんは、昔ながらのタバコのにおいが嫌でたまらないという。

当時はタバコを吸わない事務員さんが煙とともに事務所の中にいたけれど全く気にならなかったといっていた。

今はタバコが吸える社用車から社員が事務所に戻ってくると扉を開けただけですごいにおいがして嫌でたまらないらしい。

自分の通ってきた道、浸っていた場所なのに今では嫌でたまらないというそのおっちゃんの嫌悪感に不思議だなぁと思いながら聞いていた。

おっちゃんが席を外していたときに本を読んでいたら、「読んでいるところちょっと悪いね、、、」と戻ってきて早々、普段読んでいる本の話をはじめた。

田中角栄の本を定期的に繰り返し繰り返し読むそうで、読んでいると同じところで自分が田中角栄になったかのように感じ悔しくて涙を流すといっていた。

また、生まれ育った土地の方言で書かれた本を読んだあとには、話し言葉にもその方言が自然と出てしまっていたという話も聞いた。

本との関係性も人それぞれで、自分には体験することのできない感情の出かたをしていておもしろいなと思った。


体調不良と元気

長男が体調を崩してニ学年最後の2日間を休むことになった。
持ち帰るものがたくさん残っていたので、放課後職員会議が終わるころ一緒に受け取りに行った。
担任、副担任とお二人が揃って教室に来てくださって、息子が休んだときのクラスのエピソードを笑いを交えながら話してくれた。
一年間お世話になったお礼を伝えるきっかけにもなったので結果的にいい機会となった。

体調がすぐれず家ではだるそうにしていた息子が、先生の前ではおちゃらけたりしていて、先生方も明るくひょうきんさを持ち合わせている方々なので楽しそうに話していた。

家に帰ってきて早めの夕食後、「元気がでてきた!調子良くなってきたー!」といいはじめて、顔をみると目から生命力を感じられるようになっていた。

元気いっぱいの先生のエネルギーに触れて、元気をもらったのかもしれないなと思った。

タイムカプセルと性別

母校で記念式典があり、そのタイミングでタイムカプセルが掘り出された。
学年別に実行委員がたてられ、配布会が行われた。

昔仲良かった男友だちが実行委員をやっていて、中学生ぶりに会ったのに、久しぶりな感じがしなくて楽しかった。

小さい頃、気負わずのびのびと遊べていた友だちやいとこは、女の子よりも男の子ばかりだったのだけれど、だんだんと大人になるにつれて友だちづきあいに性別が問題視される機会がでてきてだんだんと時には即座に疎遠になっていった。
田舎だと性別関係なく個人として仲良くするのはなかなか難儀なことだなと感じる。


タイムカプセルに入っていた小5だった自分の作文を読んでみたら、アホっぽくておもしろかった。
当時、学校行事で田植えがあって、昇降口から裸足で田んぼまで歩いていった。
私は草むらにいるミツバチに気づかず踏んでしまい刺されたのだけれど、当時の私が「大人になるまでにたくさん刺されてるんだろうな」って書いていた。

私にとっては笑える作文だったのだけれど、夫にも見せたら、「『良かったこと』に、スキー教室でなくしたゴーグルが見つかったたこと」と書いているのに驚いていた。
なくしたから嫌なことではなく、なくしたものが見つかったから良かったことなのが不思議だったようだ。

自分でその作文を読んたときには気づくことはできなかったのだけれど、そういう見方を当時の私はしていたと知れてちょっとうれしかった。

損をした!と後悔するのが死ぬほどいやだから、しんどい出来事も得したと思えるような何かを探す。

そんなふうに考えるようになったのはいつからなんだろう。
何かきっかけになる出来事があったのだろうか。

どうせ消えゆく道ならば、どんな瞬間でも「結果的には満足だった!悔いはない」と心のなかで笑いたい。

そもそも、なぜそこまで強く想うのだろう。

答えの見つからない問いが見つかった。






アラン 幸福論 神谷幹夫訳

64 興奮

 情念と同じことだが、戦争についても言える。怒りの発作を説明するのに、利害の対立だとか、敵対関係だとか、怨恨のような原因をもち出して、それを正当化しようとしてもまったくむだである。何か好都合な状況があれば、悲劇は起きないですむ。しばしば偶然の出会いから、口論や喧嘩や殺人事件が起こっている。同じサークルに入っていて、どうしても喧嘩するはずだと思える二人の男が、大きな利益のために長い間かなり遠くはなれた二つの町に住んだとしよう。このような実に単純な事実によって、平和が成り立つ。理屈ではとてもこうはいかない。情念は全て、状況の申し子なのだ。たとえば、アパートの下宿人と管理人のように、二人の人間が毎日会っている場合、最初会った時生じた結果が、今度は何かの原因となったりするのである。いらだちや怒りの小さな衝動が、それをもっと激しくさせる動機となだてしまう。だから、最初の原因と最後の結果の間にまったくばかげた不均衡が生じてしまうことがしばしばある。
 小さな子が泣いたり、わめいたりすると、本人の知らないような純粋に肉体的な現象が起きている。両親や先生はそのことに注意しなければならない。泣いていることが苦痛となって、さらに一層いらだってしまうのだ。おどしたり、どなったりすれば、子どもの雪崩はさらに大きくなる。怒りを培っているのは怒りそのものである。だから、そのような場合、肉体的な働きかけが必要なのだ。体をさすってやるとか、目先を変えてやるのである。そういう時、母親の愛情は成功確実な知恵を見せてくれる。赤ん坊を抱いて動いたり、優しくなでたり、揺すってやるのである。痙攣はマッサージすることによってなおる。赤ん坊の怒りは、まただれの怒りでも、一種の筋肉の収縮状態にほかならないのだから。古代の人々が言ったように、体操と音楽によってなおすのがよかろう。しかし、怒りの発作がはじまった時には、どんな立派な理屈を並べてもまったく役に立たない。否、かえって有害なことが多い。それは怒りを挑発するようなすべてのものをよび起こして想像にのぼらせるからである。
 このような考えは、なぜ戦争は常に勃発する恐れがあり、また常に避けることのできるものであるかを理解するのに役立つ。人間が興奮するからいつも起こる恐れのあるもので、興奮が昂進すると、ほんのささいな理由でさえも戦争を引き起こす。理由が何であろうと、戦争はいつも避けることができるのだ、そこに興奮さえ混ざりこまなければ。ところで市民たる者は、このじつに単純明快な法則を注意深く考えねばならない。なぜなら、市民は苦しげにこうつぶやくから。「ヨーロッパに平和をもたらすために、この弱い自分に、いったい何ができるか。一瞬ごとに、新しい紛争の原因が生まれている。日を経るにつれて解決でにない問題がいくつも出てくる。こちらで一つ解決されると、あちらで一つ危機が生じる。もつれた糸のように、ほどけばほどくほど絡むばかりである。成るように成ったらいい」と。その通りだ。しかし、なりゆきだけでは戦争にはならない。そのことは無数の例がはっきり示している。すべてのことが整理されてはまた混乱状態に陥っている。イギリスの攻撃に備えて、ブルターニュ海岸に要塞がつくられたことを知っている。しかし、不吉な預言者たちの言葉が聞かれたにもかかわらず、そこでは戦闘はなかった。ほんとうに恐ろしいのは、冷静さを失うことなのだ。ここでは万人が万人、自分自身の王であり、自分の領分における嵐の支配者である。絶大な権力である。市民大衆はこれを行使することを学ばねばならない。賢者が言ったように、まず幸福になりたまえ。なぜなら、幸福は平和がもたらす結果ではない。幸福とは平和そのものであるから。

1913年5月3日

P214


犬の散歩をしていると、急になんともいえない表情をして立ち止まってしまうことがある。
傍目にはたちすくんでいるように見える。

そんなときは、背中を強めに撫でたり、抱っこして少し位置を変えたりする。
すると何事もなかったかのようにまた歩き出す。

私には何も見えないがそこに囚われちゃう何かがあるのだろうか。


体の知性を取り戻す 尹 雄大

第3章 「基本」とは何か

正しくあろうとすることが不安を呼び込む

 正しい知識、正しい実践と、学習の目標を正しさに置いているうちは、同じように学んでいる他人と確認がとれるから、安心は得られる。
 すると今度は、そこからはみ出ない努力が必要になってくる。いつも頭の中で正しさの軌跡を描きながら、そこから外れないことが精度を高めることだ、と自分に言い聞かせるようになってしまう。いわば他人の考えに自分を譲り渡し、安易な自己否定を心がけるようになるのだ。それは体の観念化に行き着く。体を社会に合わせるよう強いるだけで、自分の体が何かについては一切無視しているのだ。 
 前述のとおり、このような思い違いを捨て去るのは容易ではない。体の観念化を促す学習は、社会的に大いに認められているからだ。
 だが、いくら社会的には正しい保証が与えられたとしても、現実的に考えるとこうした努力の方向性は錯覚に基づいている。思いを凝らしたり考えられた事柄というのは、常に過去のことだからだ。「正しさから外れないように」と最新の注意を払うのは、過去を繰り返そうとする、現実にはありえない行為だ。
 それに正しくあれば、人は安心を得られると思うが、実は正しくあろうとすればするほど不安を抱えることになる。どういうことかというと、「これさえやっておけばいい」というからには、それは必勝不敗のセオリーなのだ。だから「ちゃんと身につけなければならない」。そう思い始めるとき、同時に、「もしも、うまくできなかったらどうしよう」という不安が必ず忍び寄ってくる。
 この不安の背景には、社会的な期待にかなうことが善いことだという思い込みがある。その期待に応えなくてはいけない。しかし、できるかどうか自信がない。そこで、不安の穴を塞ごうと、ノウハウや想定がひねりだされる。
 もっとも、実際に事が起きたときにそれで間に合うかどうかはわからないので、不安が鎮まることはない。心の内に生じた混沌から目を背けるために、自分にとっての正しさをいっそう信奉するようになる。その結果、不安を抱え、ますます動けなくなる。
 不安になれば、必ず体は不安定になる。塀の上や平均台に乗ってみると即座にわかるはずだ。「落ちはしないだろうか」と不安な心のままでバランスを取ろうとすれば、疑いという心の動きが、体の動揺としてすぐさま現れ、落ちてしまう。ことほどさように心と体は同期している。
 たとえば、人は落ち込んでいるときに胸を張った姿勢はとれない。やる気になったときは眼の色が変わるし、その前向きな気持ちに合わせて少し重心が前にのめる。心ここにあらずのときは顎が上がる。臆するとどうしても腰の引けた後ずさる姿勢になる。体の浮かべる表情と心を分つことはできない。

P101


初めて先生の技に崩されなかったとき

 心の動きは体に現れる。それを頭では納得していても、体感としてわかっているとは限らない。
 稽古をしていて動きに何か嫌な感じがするとき「なぜだろう」と考えると必ず不安になり、体の動きが止まる。正しい答えを見つけてから動こうとする。頭では、正しく動く必要などないとわかっているのに、いざとなるとやはり自分の過去の経験から正解を探ってしまうのだ。私は、感覚のささやきを聞く耳をもっていなかった。
 幼い頃はできたであろう軽やかに動く感覚と再び出会えたのは、稽古を始めて数年後、始めて甲野先生の技に崩されなかったときだった。
 先生が「切り落とし」という技で、交差した私の腕を手刀で下に落とそうとした。それまでの私は、誰に命じられたわけでもないのに、その場に根が生えたような姿勢で対抗していた。窮屈な姿勢でがんばろうとすると、決まって息を詰めてしまうし、必然的にぐっと力んでしまうから、自分の中の内圧が高まる。これは心理的に圧力をかけられたときと同じで、嫌な感じが全身を浸す。
 けれども、そのときの私は「何かを敢えてする」のではなく、とにかくできるだけ嫌な感じがしないようにした。その場に留まりたくない感じがしたから、素直に従った。そして、しっかり立つのではなく、足元は軽く、いつでも動けるようにした。肩や腕に無駄に力が入ると体の中に詰まりを感じるので、できるだけ滞らないようにして、何の気なしに動いた。すると先生の技に崩されなかった。それまで異様な圧力を感じていたのに。技とは問いで、このときの私の動きが答えだったのだ。
 あのスパーリングでのパンチと同じように、このときも自分の行いに何の力感も覚えなかった。力を出そうとして出すことなく、ただ感覚的に楽に動いたとき、物理的な力が発揮された。自分が何かをやったという実感はない。でも、それでも大丈夫なのだということが少しは理解できた瞬間だった。

P103


概念を生きるのではなく、ただ生きる

 このような体験をすると、いったい普段の私はどうなのだろうかと疑問になる。概念に縛られず、ただ立ったり、動いたりしているだろうか。何事にも緊張したり不安になったりしがちなこの性格は、むしろ満足に立ったり歩いたりできていないことに由来するのではないか。常に自分の中に溜め込んだ考えを確認してからでないと正しい動きにはならないという思い込みが、プレッシャーになって緊張をもたらしているのではないか。
 私は自分の体を概念(しなければならないこと)の実現を果たすモノだとどこか捉えていた。そのため正しいパターンを身につけることを長らく是としてきた。
  だが事実として、人は人の考えつく程度の総量によってデザインされたわけではない。それでもなお概念を実現するために生きていると思ってしまうのは、自分より背負った荷物を大事にするのと同じだ。それはまったく主体的に生きていない。概念に依存しているだけだ。
 概念を生きるのではなく、ただ生きる、、、、、
 それができたとき、何かの目的や正しさに従わずに、自立して生きることができるかもしれない。
 そんなことに少しばかり気づき始めたとき、衝撃的な出会いをする。韓氏意拳かんしいけんという中国武術によって、自立とは何かについて体ごと考えさせられる体験をしたのだ。

P105


(合気道もそうだけど、技を受けてみないと八百長にしか見えないのがおもしろい)

ずっと気になっていたこと。
お店でお会計をする間、無言でその場に居るのが苦手でそれはなぜだろう?と思っていた。
あるときお会計で待っていたら「あ!ちゃんと立つことができてないからかもしれない!」とふと思った。
立てていないから落ち着かないのでは?そう気づいてからは、「立つとは何か?」を考えてはああでもないこうでもないと日常のなかで試している。

上がってしまっている気を足の方へと下ろしていくと肩も降りてきて、以前よりはそわそわ感がいくぶん減ったように思う。

そんなときに、この本を知った。

基本的に立つこと以外にも歩くことや話し言葉などわからないことばかり。

自分は使えていると思い込んでいたことが、知っているように思えていただけで、使えているような仕草だっただけで、実は使えていなかったことに気づく。

すべてにおいて初心者で、学ばせていただく立場なのだと改めて思い知る。

自分への戒めのことば
"驕り高ぶるな
それは一瞬の出来事
足元すくわれるぞ"

学ぶことは受け入れることでもあるので、ある意味謙虚さが必要だったりする。
学ぶついでに謙虚さも自然と身についてくるって最高では?

得体の知れない、認識できていない体も常にここにはある。
人間を含む生き物も周りにはいるので観察とお試しができるのが楽しい。

体に興味が持てるとおまけが無限についてきてお得 ♪




動かないものを必死に動かそうと思っても動くものではないのだぞ。
つながりが切れていたら響きは伝わっていかないものなんだよ。
微振動でも動くところを見つけて揺らしていく。

(自分へのことば)

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