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人とのつながり 〜昔と今の葬儀のかたち

はじめに

ここ3年ほど親戚が毎年ひとり亡くなっている。
田舎にいると誰かの訃報を耳にする機会が多い。
ここでは死はわりと身近な存在であるのかもしれない。

子どもの頃の自宅での葬儀と今主流の斎場での葬儀は全く別物だと感じる。
コロナ禍になってからの葬儀も体験して感じたことがあったので、ここで昔の葬儀との違いを振りかえりながら考えてみたいと思う。

父方のひいばあちゃん

わたしにとっての初めてのお葬式は、ひいばあちゃんが亡くなったとき。
でもそのときの記憶はほとんどない。
ひとつだけ、布団の上に包丁が置かれていたことだけは強く記憶に残っている。
おそらく疑問に感じ、驚きもしたのだろう。

父方のじいちゃん

次のお葬式体験はひいばあちゃんの息子であり、わたしの父の父が亡くなったとき。
たしかわたしは小学生で、当時は当たり前のように葬儀は家で行われるものだった。
亡くなると組内と呼ばれる隣近所の人が連絡を受けてわらわらと集まり始める。
それからみんなで葬儀ができるよう家を整えたり、葬儀の段取りを話し合って役割分担を決めていく。

葬儀にはたくさんの人が訪れて、二間続きの和室が人であふれた。
子どもも大人もお年寄りも座布団に座ってお経が響くなか正座でその時を過ごす。
お焼香の鉢がまわってくると、大人を真似て3回焼香をした。
それから隣や後ろの人へ手渡しで渡していく。

小学生であったためか、それとも性格からくるものなのか悲しみはなくて飄々としていた。
待っている暇な時間はいとこたちと遊んだりしていた。

じいちゃんは昼間から酒を飲んでガハハとしている農家の親父でわたしから見るとさばさばしていて居心地のいい人だった。
父から見ると酒を飲むと態度が大きくなり、ときに暴れるこわい人だったようだ。
子どもの頃はじいちゃんが酒を飲んで帰ってくると、あわてて布団に潜りこみ寝たふりをしていたと言っていた。
子どもの頃は早く家を出たかったそう。

同じ人なのだけれど、どんな部分を共有しているかでその人に対する印象ががらりとちがうのは、なんだか不思議だなと思う。

遊びに行くといつも「背中にのぼれ」と言われて、うつ伏せになったじいちゃんの背中を踏んで足ぶみマッサージをした。
終わるとなぜかいつもこづかいをくれた。
今振り返ってみると、当時のそれは素直に気持ちが伝えられない不器用さでもあったのかもしれないなと思う。
お酒を飲んでないと静かな人のようなので、お酒を飲むことでしらふでは表現できない部分を出してバランスをとっていたのかもしれない。


母方のじいちゃん

母方のじいちゃんが亡くなったのは中学生のときだった。
大晦日に亡くなったため、正月明けまで葬儀ができず、お別れの挨拶をするときにはドライアイスの効果で霜がおりていた。
カチンコチンに凍りついたその姿を見てなんだか悲しい気持ちになったのを覚えている。

そのほかには男のいとこが涙ぐんでいて驚いたこと、住職さんの説法が素敵だったこと、正座しながら座れる椅子を使っているお年寄りを見かけて「最強じゃん」と思ったことも記憶に残っている。

納棺師の方にお願いしたようで、わたしは立ち合えなかったのだが、所作がすてきだったようだ。

家で行われる葬儀の強敵は正座だと思う。
立ち上がる瞬間がいちばん緊張する。
一発で立ち上がれないと、強力な痺れにやられてしばらくの間立つことができず畳の上で転がる羽目になる。
子どもにはそううまくできないもので、悶絶しながら転げてしまうのだが、大人も数名同じ目にあっていて、目が合うとその大人が苦笑いする。
それがおかしくって笑ってしまっていた。


義祖母

夫からは義祖母のひどいエピソードをたくさん聞いたが、わたしはやさしい人という印象しかない。
わたしも長男もたくさんかわいがってもらった。

義祖母は夏に亡くなったのだけれど、火葬場が混雑していて葬儀まで日にちがあいてしまって大変だった。
義祖母がどんどん膨らんでいく。
ドライアイスを使ってもガスの発生は抑えられず、体液も出ちゃうしガス抜きをしても顔が膨れてしまって別人のようになってしまった。

わたしの方は大人になってから初めての身内の葬儀だった。
組内の人に教えてもらいながら一緒に枕元に供える巨大な団子を3つ作ったりした。

自営業なうえ仕事は通常通りこなさないといけない業種なため、時間のやりくりにものすごくバタバタしていて、家族はみんな余裕がなくて大変だった。

わたしは妊娠後期で、そのとき人生で最初で最後かもしれない過呼吸になったりした。
まあ、なんとか乗り切れてよかったなと思う。

斎場での葬儀だったのだけれど、現在の環境での自宅葬は負担が大きすぎて、無理だったろうなと思う。
明らかに時間が不足していた。
時間を割いても確保できる時間が少なすぎるのが問題だった。

あのときから仕事のやり方を見直し、人を雇うことにもなったから、非常時はしんどさもあるけれど惰性を改める機会にもなっていいのかもしれない。

父方のばあちゃん

一昨年、父方のばあちゃんが亡くなった。
亡くなるその少し前から病院に入院していて、もう長くないから会いに行った方がいいよと言われた。
会いにいくと意外とハツラツとしていて、痰の吸引をするときには、「あぁいやだ。あぁやめてくれ。」と言っていたのだけれど、重い言葉も軽く伝えられる人だからか、なぜかみんなにこやかで和やかな場だった。
口数もそれなりにあって元気そうだったから、それからまもなく亡くなってしまったと聞いたときには、そうなると知ってはいたけれどなぜだか驚いてしまった。

葬儀はひとり娘のいとこがあれこれ考えて、斎場ではあるけれどさまざまな写真が用意されて、ばあちゃんへのメッセージも添えられていて、訪れた人が思い出にふれれるようになっているあったかいお葬式だった。

ばあちゃんの表情も穏やかで、不思議と亡くなっているのに安心感を与えてくれるそんな表情をしていた。

火葬を終えて骨壷をお墓に納めるときのその土地の風習を一緒に行った。
細かく覚えていないが、石のまわりを決められた回数まわったりした。
わたしの知らない人もたくさんいたけれど、お墓までのあぜ道みんなでぞろぞろと歩き、妙な一体感があった。

初盆のときには叔父のユーモラスなアイディアでタープを出し、かき氷機を業者からかりてきて、訪れた人にかき氷を振る舞っていた。
子どもたちにも人気でちょっとしたお祭りのようでわいわいとした日だった。
笑いの絶えない日だった。


父方の叔父

ユーモラスでサービス精神旺盛の叔父が突然亡くなった。
夜寝床についたまま朝になっても目を覚さなかった。
還暦を迎えたばかりで突然だったため叔父の死はみんなに衝撃を与えたし、人望があったのでたくさんの人が悲しんでいた。

コロナ禍のただなかだったけれど葬儀は斎場で行われて、コロナウィルスに怯えている人がたくさんいるなかでもびっくりするほどたくさんの人が来ていて、人におしみなく与える人だったんだなぁと思ったりした。

そんな叔父の葬儀はすすり泣きが響く悲しみに暮れたものだったのだけれど、叔母を抱きしめて励ます人の姿もある悲しみのなかに温かさのある記憶に残る葬儀だった。


母方のばあちゃん

今年、母方のばあちゃんが亡くなった。
施設に入っていたため、コロナ禍の影響で会えていなかったが、2年ぶりに亡くなる前に会えてよかったと母が言っていた。

98歳ということもあって、しんみりしたのはお別れのときと納骨のときくらいで、あとは久しぶりに会って盛り上がる同窓会のような雰囲気の日だった。

お別れのときに斎場のスタッフの方が故人に触れてあげてくださいと言ったけれど、みな花を入れるだけで触れるひとがいなくて「なぜかしら?」と思ったりした。
わたしは首元にそっと触れてお別れをしてみた。

棺を閉めるときには名残惜しそうにしている人も見受けられて、最期だと思うと人は手放したくなくなるものなのかしらなんて思ったりした。


母方のいとことはなかなか会う機会もなかったのだが、子どものころ気が合ってよく遊んでいたいとことはすぐに馴染めて、時を経ているのになんだかおもしろいなと感じた。

うちの長男と次男も納骨を初体験して、長男は初めての体験に感慨深い表情をしていた。
気の合ういとこの子どもたちとうちの子どもたちがわいわいと過ごしていて、いとこの奥さんとわたしもはじめましてなのに楽しくおしゃべりできている。
そんな火葬の待ち時間は命が失われて起こるできごとなのに、新たなつながりが生まれる場でもあるとも言えそう。
葬儀は「失われて生まれる」を体験する機会でもあるのかもしれない。



おわりに

改めて考えてみると、自宅で行われていた葬儀の方が一体感があって雰囲気がよかったなと思う。

斎場での葬儀は余所行きな印象がある。
きっちりしていてスムーズだけど隙がない。

自宅葬は自分たちのためだけの葬儀で、あのゆるい感じがよかったなと思う。
一体感があった。

たぶん斎場での葬儀でも、お墓での地域の儀式があればその空虚感は補えるような気がする。

コロナ禍になると葬儀に顔を出してもお焼香だけして帰る人が増えた。

葬儀は悲しみをひとりで抱えるのを防ぎ、一体感によって和らげるものなのだと思う。
やることに追われていれば悲しみに飲み込まれなくてすむ。

ただ火葬は故人へのイメージをぶっこわし現実を突きつける行為でもある気がしている。
人口が減り死がみんなで共有できなくなってくるこれからの時代は、精神的にも土葬の方が乗り越えやすいのではと思う。
日本は土壌の成分的に土葬でも骨までほとんど残らないらしいので土地の問題が解消できるならそうできたらいいかもしれない。


義祖母がなくなったとき、父を40歳で亡くした義父が「孫がいて賑やかなのがありがたい」と言っていた。
無邪気な子どもという存在は、絶望の淵から現実へと引き戻してくれて、気をまぎらわせてくれるものでもあるのかもしれない。

きっとひとりでは身近な人の死を乗り越えるのはむずかしい。
つながりは切らず残しておけば、つながりを忘れていてもまたつながることができる。

効率的になればなるほど個々のつながりが薄れつつあるけれど、だからこそ個々と心地よくつながれる機会は大切にしていきたい。

そして、新しく人と出会うときにはつながりが生まれるかどうかをおもしろがっていきたい。
つながりをいっしょに育てていける相手なのか楽しみながら観察してみる。

これまでの人が亡くなる体験からそんなことを思ったりしました。

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