見出し画像

占星学

個人的な学習用として。
自分の中のさまざまな性質を統合するための実践練習の一部であり、潰れないように潰さないように合わせていく練習でもある。
ふわっと手をあわせる。


我々はそれぞれのタイプが、したがってそれぞれの占星学のエレメントが、いかにして反対の機能の弱さを控えているかを見てきた。我々がこれらの特性クオリティを悪だと思う時、またそれらを判断し、そして無意識の中に押し込める時、それらは膿み、我々が悪と信じるほどに、まさしく悪になっていく。目に見える敵意を作り出すのは我々の無意識への見方なのである。

占星学
美女と野獣 P160


【メモ】
土星・・・天秤座では、暗黒への恐怖と激しい感情にまきこまれること、破壊力への恐怖を刺激する。(P166)   →妹に投影

♦︎思いつき
食事のときの所作を変えてみたらどうなるだろう?  
→感情と欲望を抜いて所作に集中して食べてみるとどうなるか。

♦︎気をつけること
行うことばかりに気をとられないこと
何もしていない時の身体の状態にも心を配ること



占星学

4 美女と野獣

 心理学的タイプ論を少し理解すれば、次には、我々は人間の心の奥にひそむ、暗く、破壊的な側面に目を向けることができる。それはユングが「シャドウ」と呼び、占星術では土星に関連づけられている、心の側面……「境界線の魔物」である。

  己の闇を見るものは、全てを見る。

と、チャベリーのハーバート卿は言っている。簡単なように聞こえるが、これは、我々の多くが、必死で避けようとしていることなのである。多くの人々は、当然、寝た子を起こすようなことはしたくないと思っているし、よほど状況が逼迫して来ない限り、こうした態度はある程度まで賢明でもあるのだ。自分が「まあまあの」ーーー多少の欠点はあるにしても基本的にはまあまあのーーー人間であることを考えるほうがずっと心地良いし、この世に害毒を流すのは、政府や、黒人、ヒッピー、共産党員、あるいは外国からの移民だと仮定する方が心やすいものだ。なかには、この世に悪をつくったのは悪魔であり、そうだと仮定することによって人間の責任を回避することで安心しようとする者もいよう。
 この種の無感動や無関心は、個人の場合には長期間にわたって、いや、ある時には一生涯にわたって、何の問題にもならないこともある。しかし、無感動や無関心は、段々と、重要な、いや荒廃を引き起こすような、社会の問題になっていく。我々は、もしそれが自分の目の前で起こらなければ、自分の責任では有り得ないと考えるような態度に慣れてしまっている。そして、自分自身の闇が自らを捕らえ、呑み込んでから初めて、人間は、自分自身に問いかけるようになるのである。
 エドワード・ホイットモントは、「シャドウの投影」という、分析心理学ではよく知られた現象を、著書『シンボリック・クエスト』で詳述している。

  
   この種の状況は、あまりに古典的なので、茶の間ゲームにしてジョークにすることもできるほどだーーーもし社交上のトラブルを招きたければの話だが。誰かに、自分が一番我慢できないと感じる人間のタイプを描写させてみるといい。彼は、自身の抑圧されたパーソナリティを語り始めるはずだーーーその自己描写は、完全に無意識的であり、それゆえに、いつでも、どこでも、誰が他の人からその影響を受けているかのように彼を責めさいなむのである。(1)


 このパーソナリティのシャドウの面は個人の中では「完全に」無意識的であるにもかかわらず、不運なことに、他人の人々からさほど隠されてはいない。シャドウが抑圧されればされるほど、そして、無意識的になればなるほど、他の人にはよく見えるようになるものである。よく、こんなふうに宣言する人がいる。「私は、本当に、独裁的な人が嫌いなんだよ。そういう人たちは、皆を不幸にするからね」。しかし、別の場面では、その人の妻や友人たちは、こう言うのである。「そうね、彼は時々、まるで暴君のように振る舞うことがあるの。でも私がそう言おうとするたびに、彼はカッとして、私の言うことは全然わかってもらえないのよ」。我々を怒らせるのは、独裁者だったり、怠け者だったり、愚か者だったり、我が儘な人だったり、偏見に満ちた人だったり、短気な人だったり、ずるがしこい人だったり、鈍感な人だったりする。しかし、自分の闇の面に目をつぶることーーーそしてそれを他人に投影することーーーは、信じられないほどごく普通のことで、それから免れている人はほとんどいない。一般に、シャドウが意味することを理解している人はほとんどいない。
 占星術のチャートを見て、解釈をひきだそうとする前に、シャドウの含む裏の意味について少し理解しておくことが重要だろう。理想的には、自分自身のシャドウを知るためには、多分、ホロスコープのようなものは必要ないのが一番なのだろう。しかし、シャドウは、その名前が暗示するように、普段はほとんど無意識的で、このあまりにも不快な人間の人格の側面と向き合おうとすることは、意志や知的明敏さの問題ではなく、善意の問題ですらないのである。地獄への道〔シャドウとの対決〕は、もちろん、善意や知性によって、多少歩みやすいものになるだろうが。


    シャドウは自我エゴーーーすなわち、人格全体に挑戦するような倫理的な問題である。なぜなら、相当な倫理的努力なくしては、誰も、シャドウを意識化することはできないのだから。シャドウを意識するということは、今、現在目の前にある、人格の暗い側面を意識するということを含むのである。この行為はあらゆる自己認識に対する本質的な条件であり、それゆえそれは、概して相当の抵抗にあうことになる。(2)


 自分の暗い側面を知ることは、自己認識に対してだけでなく、他人の認識や受け入れに対しても必要条件である。無意識の中にあるものはすべてそうだが、シャドウは意識の光のもとにさらされなければ他人に投影されてしまう。シャドウの問題は、ある個人の成長や個人的な関係を形作る度量の大きさのみにおいて重要なのではない。シャドウは、集合的な意味でも極めて重要なのである。もし我々が我々自身の中のこの暗さにもっと気づいていれば、集合のシャドウの投影を示す集合的現象ーーー虐待、異端審問、粛正、人種的不寛容と偏見、そして犠牲と生け贄スケープゴートを伴う現象のようなものーーーは決して起こらないであろう。しかし、子どもたちの間においてさえ、この醜い現象が見られる。どんなグループにおいても、シャドウの投影を集め、スケープゴートとなってからかわれ、ひやかされて、のけ者になってしまう子が出るのは避けられない。そらは多分に、生まれついての心理的特性のためなのだが、それとてほとんど彼の責任ではない。彼は、こうした子どもじみた野蛮さと残酷さの矢面に立たされる。それは、初めは些細なものかもしれないが、ほうっておくと、その破壊的側面は、アウシュビッツやベルセンに見るような、ぞっとするほど非道な形で、ついには最も恐ろしい頂点へと到達してしまうこともありえる。我々は、ほんの些細なことについてであっても、自分たちの中に潜在する残酷さについて、わずかな自覚しか持たないようになっている。そして、多くの人々が、「誰か他の人」(それはもちろん、あなたや私ではない)に責任をなすりつけて
アウシュビッツとその罪を忘れたがるけれども、今の社会の迫害の現象にも、このメカニズムわの淡い反映が垣間見えるのである。

P153-158

 シャドウは、個人の無意識に生まれつき存在しているが、一見非常に暗く、破壊的にみえるために、発達の段階では意識から除かれているようなあらゆる特性クオリティから成り立っている。そして個人は、これらの特性クオリティが自分に属していることに、心地好く気づかないままでいられるのである。我々は、各々の心理的タイプがいかに「劣った」側面を持つか、そして、その意識の劣った機能の構成要素がシャドウの性質をいかに強く色づけするかを見てきた。さらに、他の要素もこれに加えられる。個人が、両親や宗教的訓練によって抑圧されたために、彼自身の性質の構成要素でありながら、受け入れられないようなものである。シャドウは、一般には人間の形をとって人間の意識の中にまず現れる。その像は、もっとも一般的には、夢を見る人が、彼と同性の神秘的で悪意ある敵に捕まえられたり攻撃されたりといった夢として現れる。
 概して、シャドウは同性に投影される。同性の他人の中に見られる大嫌いな性質を正直に見つめることによって、大きな洞察を得ることができる。ある女性が次のように言うのを聞けば、彼女のシャドウの一面を知るのに十分だろう。「私はおむつやレシピのことしか考えないような、依存心が強くて自分の心を持っていないような、そういう鈍感で感情的な主婦は嫌いよ」。その言葉に、彼女の表面には出てこない、彼女なら中の正反対の極があるのだ。こう言う人もいるかもしれない。「彼女は何て恐ろしい人なのかしら。彼女は自分のこと、自分の楽しみのことしか考えないわ。彼女は、全然、女らしくないし、それに奉仕ということの意味を理解していないのね」。もし、この二人の極端な婦人が、これらの不用意な言葉によって本当は誰を指しているのかを確認すれば、彼女らはおそらく恥ずかしくて、身を縮めてしまうだろう。それらは陳腐な発言だが、驚くばかりに一般的なのだ。弱くて、意気地がなくて、女々しく、それに支配される男性を嫌っている男性がいる。しかし、彼の反対の極もあるのだ。すなわち、栄光のための戦争を好み、自分の秘書の肉体の魅力を喋るために夜な夜なパブに集まる以外には協調など全くしない、獣的な、攻撃的な、そして無情なタイプを咎める男性もいるのである。平和主義者は、彼自身の中に弱いいじめの部分を含み、また英雄は臆病者を自らの中に含むのである。ミック・ジャガーが「悪魔を憐れむ歌」で歌うように。

  
    警官はみんな犯罪者、
    そして罪人はみんな聖人だ。

古代ローマの神、ヤヌスのように、我々はみな二つの顔を持つ持つのであり、これを認めなければならない。もし自分の暗い側面あるいは明るい側面が身近な人に現れているかもしれないという問題について、何らかの意識的な考えを持つつもりならば。
 しばしば、シャドウは、個人だけでなく、制度あるいは宗教に投影される。この現象は、すべての、狂信的な、またイデオロギー的な増悪がみられるところに見うけられる。シャドウと自我エゴは一緒になって全体を構成するものて゛あり、その全体は、我々がすでに見たように、必ずしも完全無欠パーフェクトではない。しかし、それは完結しているコンプリートのである。
 我々の意見はすべて、それらが高い感情価を含む時、疑わしいものとなる。〔シャドウの投影かもしれない〕


    自分が状況に比して大きすぎる感情の犠牲になっていると自覚する時、または実は我々の関心の範囲の外の、まさしく自分にとっての関係がないはずの状況に関してこんな反応をする場面では、我々は自分たちのものだと認識してこなかった我々自身の何かに反応しているのではないかと疑うべきである・・・(3)


我々はそれぞれのタイプが、したがってそれぞれの占星学のエレメントが、いかにして反対の機能の弱さを控えているかを見てきた。我々がこれらの特性クオリティを悪だと思う時、またそれらを判断し、そして無意識の中に押し込める時、それらは膿み、我々が悪と信じるほどに、まさしく悪になっていく。目に見える敵意を作り出すのは我々の無意識への見方なのである。


    無意識は、意識がまやかし、あるいはもったいぶった態度をとる時のみ意識に対して、敵意ある、または無慈悲な態度をとる。(4)


そして、人間がとる最も偽善的な態度のひとつが、それがつねに誰か他の人の過ちだと信じこむことなのである。
 子どもたちは、シャドウの自律性について本能的に知っている。そして多くの想像上の遊び友達がその化身だということも知っている。これらの「単なる」空想の創造物は、しばしば、いたずら(messier)、つまり、子どもの、受け入れがたい行動の側面に対して責任を持つ。お皿を全部打ち砕き、壁に落書きをし、猫の尻尾を引っ張り、そしてパパのカブスボタンを盗むのは遊び友達の方であり、決してその子自身ではないのである。嘘を告発される時には、子供は防御的になり、狼狽するだろう。しかし子供は、彼なりのやり方で真実を述べている。この身振りは「誰か他の人」と言う点においては正確である。なぜなら、確かに彼はそれに対して何ら意識的制御を行っていなかったのだから。この種の破壊的なもう一つの人格は、子どもがあまりに長い時間、無理に「いい子」でいるようにさせられるときに、よく現れる。大人も、彼ら自身の暗い側面の表れである行動を告発する時には、似たような反応をする。なぜならシャドウは、意識化されないほど扱いづらいアキレス腱になるのだから。自分が自分の中の、もっとも憎むべき無意識の性質を表出しているのだと指摘することは、たとえそれが正当で、建設的な意図からのものだとしても、彼のセルフイメージをおりわかすことになり、普通、観察に対するひどく理不尽な、激怒と正義感の噴出を引き起こす。我々が子どもたちのように正直であるなら、我々は、言い訳のたつように「いや、それは私ではない、また私のシャドウがやったのだ」と言うだろう。そして、より重要なことに「彼は何をしたがっているのだろう」と言うだろう。すべての無意識的な内容はそうだが、シャドウは意識にのぼろうとする。また、それはおそらく、この心の側面を乱暴に判断するのを止め、また、他人の中に現れた自分のシャドウと戦おうと試みることを止め、それがら何を与えてくれているのかを冷静にみるようにすればそれはとても役にたつものとなろう。多くの人々にとって、シャドウは何としても視界から遠ざけておかねばならない、恥ずべき秘密である。我々は、自分たちの共通の人間性を見せるべきではないという極端な考えを持っている。その人間性とは結局、半分は動物であり、お互いにとって道徳的非難の恐怖の的なのであるから。それゆえ、我々はお互いに完璧な面だけを見せようと試み、ぴんとはった糸のようにはりつめた努力は、いつも我々の期待に反して不寛容な重荷となり、期待は裏切られるものだという確信となる。

P158-162

 シャドウは元型アーキタイプである。すなわち、それは、いつの世紀にも、またどの文明においても、すべての人類に共通の内なる経験なのである。芸術とおとぎ話はここにおいてその知恵を示しており、英雄が、独特で時に原始的で醜く、あるいは少し意地悪なものや、またある時には動物の連れによって冒険に導かれることを我々に語っている。その連れは、その獣性と愚かさのために終わりなき問題を引き起こす。同時に、この人物は、その本能的で自然な知恵を通して、英雄が彼自身の勇敢な行動あるいは高貴な生まれゆえに打ち勝つことのできない何かのジレンマに陥った時に、つねに彼を助ける存在なのである。古典的な例は、ドン・キホーテとサンチョ・パンサである。他のケースでは、シャドウの人格は敵や魔法使い、あるいは英雄をやっつけようとする野蛮な武士である。しかしつねに、いくつかの興味深い方法で、シャドウの意思的な悪は英雄が彼のゴールに至ることを時には遠回りをするとはいえ、可能にする。おとぎ話は、我々に、シャドウについて最も重要な事実を語っている。彼のぶかっこうさと暗さの後ろでは、彼はこっそりと、多くの性質を隠している。それは「悪」からはほど遠い、自我エゴが統一された全体になるために必要な未成熟な性質である。シャドウは意識的な行動を「よりよく」しようとすることによって取り除かれることは有り得ない。そして、もし我々がその性質をしなければ、それらは自身の自律の「別の人格」あるいは「二重身ドッペルゲンガー」ーーーポーやドストエフスキーやR・L・スティーブンソンの作品によく出てくる悪意ある人物ーーーを生みだすことによって復讐するかもしれない。批判や非難によってそのシャドウを変えることはできないし、追い払うことも払い清めることすらもらできない。求められているのは意識の態度をかえることだ。よりバランスのとれた人とは、彼のパーソナリティにおいて、劣等性そのものを表現できる余裕のある人であり、そうすれは彼のシャドウもよりバランスのとれたものとなるであろう。しかし彼がよりいきどおって公正であろうとすればするほど、シャドウはより暗く破壊的になっていくのである。

P162-163


 誕生ホロスコープの土星の位置は、人がその中になぜか発育を妨げられ、あるいは発達を止められた生き方、彼が無力、神経過敏あるいはぎこちなく感じるだろう部分、そしてその反動として、過剰に強くあろうとしたり、かたくなな顔を見せようとする面のすべてを示している。チャートの上のどの点も、一義的に理解され得ることはないし、土星もその例外ではない。しかし、我々はまたパーソナリティの無意識の面は、我々に属するけれども我々が表現でにない、あるいはあえて表現しないそれらの性質によって、構築されていることを覚えておかなければならない。したがって、土星のある位置から、シャドウがそれ自身を表現する領域を、推測するのがもっとも手近だろう。それはある人がおそらくは他人に対して最も防御的かつ批判的になるところ、またその人自身の劣等性の無意識の態度ゆえにもっとも環境の敵意と対立を引き付けやすいところでもある。土星の位置は、ある人の、もっとも劣った、また心の狭い、偏狭になりがちなところを示唆している。そしてその人が不運の責任は世界にあると咎めようとする限りはこの惑星の位置は、不運がやってくる方向を、確かに示唆している。しかしながら、もしその人がシャドウを受け入れ、そしてこの不運を引き付けるものとして作用しているものの内に何があるかをみきわめようとすれば、その人は、土星が力の源、またゴールへの小道を照らすかがり火となるのがわかるだろう。おとぎ話特有のあの"連れ"にあるように。
 土星は、人が誕生の時に入っている星座のもっとも悪い性質を引き出す傾向にある。なぜなら、彼はその星座に固有の性質への恐れを強めるからである。そして、その反応は、普通、二つの極端な形のうちのどちらかになる。一つには、自身に引きこもったり、表面上の欠点におびえ、彼自身を苦しめる。あるいは、土星の置かれた位置の星座の属性を誇張することによってそれらを過剰に補償しようと努める。このどちらかなのである。両方の反応が一人の個人の中で起こる時もあり、それらに無意識である時もある。例えば、土星が牡牛座にある人は、自分のもっとも大きな恐怖は二番手になることか、敗れることであることを知るだろう。彼は、牡羊座が持つ挑戦への情熱と、人生に直面しそれを征服する彼の能力における自信を表現するのを難しいと感じるだろう。彼は受け身になり、たやすく支配されてしまうかもしれない。そして、このケースにおいては、彼は秘めた恨みと怒りを抱える。その恨みと怒りは、自分より正直に自分のエネルギーを表現できる人々との関係を悪化させるだろう。あるいは、彼は弱いものいじめをするかもしれない。そして彼自身の腕前に自信がないゆえに、暴君となったり、自分自身を過剰擁護するかもしれない。単純化していえば、牡牛座では、土星は自分の所有しているもの、あるいは物質的な失敗、またあるいは本能的な性質とその統一性を失うことへの恐怖をもたらす。双子座では、とらわれることを、あるいは知の世界を探求する自由を失うことへの恐怖。もたらす。蟹座では、感情的な孤立と拒絶を、獅子座では凡庸になることや注目されないこと、あるいは愛されないことへの恐怖をもたらす。乙女座では、無秩序と未知への恐怖を育て、天秤座では、暗黒への恐怖と激しい感情にまきこまれること、破壊力への恐怖を刺激する。蠍座では、他人こ優勢あるいは感情的弱点を通した支配への恐怖を強調し、射手座では、無意味さとルーティンを作り出す束縛への恐怖をさらにつのらせる。山羊座では、物質的環境と他人の権力による支配への恐怖を激化させ、水瓶座では、他と違うことと集団から締め出されることへの恐怖を強調し、魚座では、より大きな感情的全体から分離されること、感情的な孤独への恐怖を強める。
 自分の土星を持っている星座の下に生まれた人を嫌うということもよくある。しかしまた、その人を魅了ある、魅惑的なものだと感じてしまうこともまたよくある。多分、後者はより健康的な反応である。それは、よりよい方向に人を成長させる人間関係だからだ。前者もまた成長を促すであろうが、より多くの痛みを伴う。土星は、親密な人々の相性判断をする時、お互いのチャートの関係の深い位置によくあらわれる惑星だ。事実、少なくとも土星との強い絆を持たない関係は、ここちよいけれども、個人の深い感情的生活に影響を与えにくいと言われている。

P164-168


 土星の両義性と逆説パラドックスについては優に一冊の本が書ける。(5) 実際、その仕事がなされている。土星の位置する星座をただ単に考慮することは本当にはなはだしい簡略化である。土星の入ったハウス、誕生のチャートの内で他の惑星に対しての角度関係、避けられない偏向をもって一定方向への意思の発展へと向かうチャート全体も考慮されねばならない。しかし、もしいくらかの注意がこの惑星の解釈に与えられれば、人はその人生においてもっとも大きな障害について良い考えを得ることができるだろう。なぜなら、土星はまさに、心がそこからより大きな統合に達しようと努めるものーーー苦しみを通してより大きな理解の助けとなる経験をもたらすことによってーーーの基本的な物質プリマ・マテリアであるのだから。
 171ページにあるチャートは、シャドウの自律性を示す格好の例である。またこれは、一人の人間が自分の問題を意識化し、そこから自分の成長、価値観の達成のための意味をひきだした航路を示すものである。

P169


 ある人のシャドウの投影は、普通、誕生の時に土星が入っていた星座とハウスによって象徴される人生の場面の中で表現される。敵が対象化され、外在化されるのは人生のこの場面の範囲の中でである。ゆえに、ポールの劣等の感覚機能、これは彼の性質の暗い面を非常に色づけているのだが、この機能は彼の父親の上に自然に投影された。ポールのシャドウは、それ自身を、力強い無意識的物質主義、厳しい因習性、権威におけるそれらの意見に対する過剰な敏感さ、むきだしの好色、肉体的暴力への性癖として表出される。これらの性質のほとんどを、ポールは猛烈に否定した。唯一、彼が認めたのは、好色だった。なぜなら、それは彼の自己イメージとなじむものだったからだ。これらの好ましくない性質は、当然、彼の父親に属しているようなら思えた。父親は、ポールには土星として現れるのである。すなわち、権威的で、伝統的で、欲深く、お金と物質的価値に関してのみ心を砕く人物としてである。投影は彼の父親を超えて社会に及ぶ。社会はポールにとってまた土星として現れるのである。そして彼はその両方を憎むことになる。明らかに、ポールの父親はシャドウの投影の格好の対象となった。しかし彼は同世代の、多くの男たちよりも良くも悪くもなく、すぐれた性質も持っていたのである。
 ポールの父親と父親が支えた社会という形で、乙女座の土星はまたポールにとって、息苦しいほどの抑圧と、意味のない規則への固執を象徴する。これは個人パーソナルの自由を愛する射手座の性質とは相入れない。世界は許しがたい秩序に満ちているように思える。その秩序は、彼の人生を石化させる恐れがある。これらの恐れられた地の性質の積極的な面が彼の夢を実現させるのに必要な実際的な知恵だということに、彼は決して思いいたらない。 
 他の多くの直感的な人々のように、ポールは、自分の意のままに生きたいと感じた。しかし彼は自分の性質のシャドウ的な面を考慮に入れていなかった。意識の側では、彼は輝かしい目標をもち、共に彼についてくる仲間の幸福を考えた。しかし、無意識の側では、彼の心のルーツにおいて、土星によって象徴される暗い面が、他人を支配するという目的のために彼の生来の能力を利用しようとしていたのだ。そしてそれは、彼をまず自分から遠ざけ、次に、専制的な振る舞いの噴出、暴力的な気性、肉体的暴力、そしてお金に対する扱いのある種のいい加減さーーーすなわち、彼が、よく、警察、政府、そして特に彼の父親といった権威者たちに投影していたすべての行動パターンを自分がすることで、自分を仲間から遠ざけてしまった。これらの噴出は常に古典的な方法ーーー「魔がさす」ーーーで合理化される。が、当然、彼の助けとなり、彼がもっとも必要とする人々は遠のきはじめる。彼は、皆に向かって朗々と述べて伝えた理想を実行することができないリトル・ヒトラーだという世評がたち、組織は崩れ始めた。彼はこれらの告発によって深く傷つき、彼らをみな、不公平だと信じた。
 出生ホロスコープでポールの困難さをより大きくしているのは風の星座に個人的惑星がひとつもないことである。これは、彼自身の動機や行動を客観的、冷静に分析できず、自分が何をしていているのかわからないことを示す。ポールの思考機能は、意識の道具としてはもはや感覚と同じように頼りにならない。
 故意の偽善者だとポールを責めるのは不公平であろう。彼ももはや、彼の内面を統制することにかけては、子供が自分の破壊的な綿を扱えないことと同じだった。彼はなるべく内面を見ないようにしていた。その点では、他の人に比べて彼が特に罪深いわけではない。しかし、危険な結果を招くことを抑圧することによって、そして感覚的なものの価値の正当性を否定することによって、彼はシャドウをより暗いものにしてしまった。そして、彼が物質的なものをすべて悪と見なすほど、シャドウは邪悪な方法で振る舞い始めるのである。ポールの男女関係の扱い方はお粗末で未熟なものであった。ハーレムを維持し、彼の成功を見せびらかすことによって、多くの直感タイプを当惑させている性的な無力さの、あの漠然とした不安を補償しようと彼は必死になって努めた。しかし彼はいまだ決して、自分の男らしさにいくらかでも自信を得ることに、あるいはニ〜三か月以上のまっとうな関係を維持するのにも、実は成功していない。彼が自分の出生ホロスコープを分析することに興味を抱き始めた時、彼は野生化してしまったシャドウが生みだす一連の特徴的な夢によって妨害された。彼は、彼がすぐ自分の父親野関連づける、残忍な警察官あるいはゲシュタポの外観における暗い姿によって追われ、責めさいなまれた。これらの姿が彼自身の無意識を表していることは、彼は受け入れないが、明らかだ。
 もしあるエレメントが出生ホロスコープで優勢なら、人はそれが象徴する心の面が現れてくるのを拒否できない。ポールは、彼の暗い面を受け入れることを極端に拒否しており、彼のチャートの四つの地の惑星は、すべて土星を通して現れてしまった。それらは未統合のまま残され、彼を破壊する自分とは別な実在であるかのように振る舞っている。この場合シャドウは特に破壊的だが、それは当然なことだ。無意識は意識的態度の一面性を償おうと努め、時にはそれが求める均衡を成し遂げるために自我エゴを壊すことさえ辞さないだろう。ゆえに、おとぎ話では、英雄をやっつけようとする敵がいなくてはならないのである。なぜなら、この方法のみで英雄は彼のゴールに辿り着くことができるのだから。
 ポールの症例は、自分自身の心の一側面と共に激しい戦いに巻き込まれた人物の、典型的な例であった。子ども時代を表すハウスに位置した土星は、激しい不当感と、適切に体験されなかった子ども時代ーーー感情的な気質が求めていたが、家族が与えてやらなかった幸福な子ども時代ーーーを再生産しようとする激しい欲求を示唆している。結果として、小さく傷つきやすい子どもは常に専制者となってしまう。そしてこの劣等感情は、元型的、ホメロス風といえるほどに肥大してしまった無意識によって補償されるのだ。ポールは密かに、自分が殉教した救世主であり、誤解され、他の誰もに迫害される預言者、あるいは儀式の犠牲を差し出す王であるかのように感じていた。彼はセラピストの間を渡り歩いたが、いつも治療の途中でやめた。ーーーあるいは料金の支払いがいいかげんになったーーーそれはきまってシャドウの問題が分析される時だった。子どものように、彼は誰か他の人にすべての悪いことを追い払ってもらいたいと望んだ。しかしおとぎ話が我々に教えてくれるように、野獣がハンサムになるためには、その野獣自身をあるがままに愛さなければならないのである。
 ポールの問題の結果として、彼の属していた組織(それは彼の人生の中で他の何よりも意味のあるものなのだが)から彼は追い出された。その組織は、彼なしでもうまく機能した。そのことがまた、彼の自我にはつらいことだった。彼の内の暗さと明るさのひどい分裂は、素晴らしく生産的な道具へと統合されることもできたかもしれないが、人に必要とされることを望む人物にとって、結局最悪の状態を招いてしまった。すなわち、完全な孤独である。魔王に身をやつした土星が我々を屈服させるのは、この種の経験を通してである。しかし我々が心のすべての可能性に気づきを得るのもまたこの種の経験を通してのみなのである。
 もひポールが彼自身の暗さを受け入れるという道徳的な課題を喜んで引き受けていたならば、シャドウの経験は心理方的成長における真のステップにとって跳躍台となっていたかもしれない。この種の問題なら容易な解決法はない。なぜなら、ユングが言ったように、シャドウに気づくようになるには、膨大で、しばしば痛みを伴う努力が必要だからである。シャドウの心理的姿は、我々が我々自身の中でもっとも軽蔑するものすべてである。自分の内で欠けている半面を人格化(投影)していることに気づくためには、両極の間のどこかに、今の自我の中心点を移さねばならない。自我はこのような移動によってそれが壊されると感じるだろう。これは骨の折れる企てである。しかし実際には、壊されるものは人の能力ではなく、アイデンティティ(主体)でもないが、むしろ自我が自分の家の主人であるという信念であろう。我々が教わったキリスト教的論理と非常に違うのは謙遜における教訓である。なぜなら、我々の内なる神、ヤヌスのように、二つの顔を持っているのだから。
 これを書いている間も、ポールはいまだに安定していない。迫害され、幻滅させられ、だまされていると感じている。彼は自分がなぜ排除されてきたかを理解することができないし、組織の中で誰かが彼の地位と権力を欲していると信じてしまうのである。この重要な、そして潜在的には価値のある経験の真の意味が、彼の土星が回帰する時、つまり惑星が彼の誕生の時に入っていた乙女座を通過する時までポールには理解できない公算は大きい。これが起こるであろう重要クリティカルな年代には、マーク・ロバートソンが『ザ・トランジット・オブ・サターン』で書いたように、(6) 自我構造の内の不誠実なものすべてはくずれ始め、無意識が統合へ向かって動き始める。ポールにとって、その時までたっぷり二年あり、そして彼はその間に、土星の教訓を学ぶ機会を得る。生き抜いていないものは何も死なない。人は自分が見ようとするものばかりを見るものだが、しかし、それは統合された心の知恵と比べれば、哀れで狭い視点にすぎない。人が自分に見えないものこそ、真の師となるのである。
 土星は、占星学的象徴としては、我々のもっとも偉大な敵でありもっとも偉大な友である。なぜなら、我々の痛みと欲求不満を通して、我々は土星の意味の本質を学ぶのだから。シャドウを敵にしたてているのは我々自身である。我々は自分の劣等的かつ原始的面を自身で完全に取り除くことはできない。しかし、おそらく我々を生まれつきの資質に挑戦させ、我々が創造の業では劣等と呼ぶものを自ずと含んでいるという当然のことを否定したがるのは、完全性を求める人間の理想にすぎない。出生ホロスコープの土星を注意深く見れば、金になるための粗石を思い出させてくれるはずである。そして、惑星の占星学的分析はとらえがたく難しい、しかしつねに統合に向かって奮闘している心理学的エネルギーをしかるべく理解することを、長い目でみて助けてくれるのである。

P173-179



形式の外側


"寂しさ"

我々が子どもたちのように正直であるなら、我々は、言い訳のたつように「いや、それは私ではない、また私のシャドウがやったのだ」と言うだろう。そして、より重要なことに「彼は何をしたがっているのだろう」と言うだろう。すべての無意識的な内容はそうだが、シャドウは意識にのぼろうとする。また、それはおそらく、この心の側面を乱暴に判断するのを止め、また、他人の中に現れた自分のシャドウと戦おうと試みることを止め、それがら何を与えてくれているのかを冷静にみるようにすればそれはとても役にたつものとなろう。多くの人々にとって、シャドウは何としても視界から遠ざけておかねばならない、恥ずべき秘密である。我々は、自分たちの共通の人間性を見せるべきではないという極端な考えを持っている。その人間性とは結局、半分は動物であり、お互いにとって道徳的非難の恐怖の的なのであるから。それゆえ、我々はお互いに完璧な面だけを見せようと試み、ぴんとはった糸のようにはりつめた努力は、いつも我々の期待に反して不寛容な重荷となり、期待は裏切られるものだという確信となる。

P162


分離の寂しさ
ひとつになりきれない寂しさ


小さな生き物


野生のポルカ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?