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占星学


 人との関わりをもつことは、人生の基本的な局面である。それは元型的アーキタイバルなものであり、すなわち一個人の心のみ存在するのではなく、宇宙全体に存在する基本的構造なのである。局面あらゆるものが人間関係を基に成り立っている。人生のある一面を理解しようと思うなら、それ以外のすべての点との差異によってその一面を認識するしかないのだ。夜があるからこそ昼の存在がわかるように、双方の関係がお互いを規定し、その存在を明らかにしているのである。少し考えればわかることだが、我々人間は自分と他者との比較を通してのみ、自分自身を認識することができるからである。
 いくつもの理由により(その中には明白なものもあればより微妙なものもあるが)、人と関わりをもつという経験が今、歴史上のどの時代よりもその重要さを増している。人間関係はいつの時代にも生活の重要な一面ではあったが、それが必ずしも人間関係という名称で呼ばれていたわけではない。孤独をまぎらわすもの、欲求を充たすもの、種の存続、個人と社会を保護するもの、愛という経験(これは大人なら誰でも知っているように、全く曖昧な言葉だが)、そして物質的利益を得るための手段など、非常に明らかなもの以外には、その目的を認めることさえしてこなかった。まわりの人々と共に暮らしていく上で報われることも多いが、同時に苦痛を伴う努力をするのはこうした理由があればこそだった。しかし過去75年間、主に心理学の研究を通じて人間関係は単なる種の個人的な満足の手段だけではないということが明らかになってきた。つまり、意識の成長を助け、自分自身の理解を深めるためにそれが必要なのである。人間は自分の姿を映してみるまでは自分がどんな姿をしているかわからない。この単純な事実が肉体だけではなく心の世界にもあてはまるのである。

序 P20-21


占星学



はじめに

 私が本書を著述したのは、占星学の象徴体系シンボリズムと深層心理学(主にユング心理学)の両方を通じ人間関係の莫大で複雑なジレンマを解明したいたという動機からでした。ーーーなぜなら占星学と心理療法の両方にたずさわってきた経験を通じ、(私たちが)現実の世界で出会うということは私たちの中に潜んでいるものを映し出しているということが明らかだったからです。つまり人間関係は私たち魂の構成物を映し出す大きな鏡であり、師でもあるのです。この考え方は決して新しいものではありません。ギリシャ哲学思想やルネッサンスのヘルメス学の中でも見られるものです。しかしこのテーマは10年前に書かれた占星学の本の中では比較的新しいものでした。ユングーーー彼は占星学的洞察をよく用いていましたがーーーがこのテーマについて数多くの著作を残しているものの、英国イギリスに占星学がもたらされたのは神智学を通じてでした。神智学は哲学システムとしては優れたものでしたが、深層心理学が人間の全人格をとらえ、その中で重要な位置に留めるべく多大の努力を払った "低次の本質ローワー•ネイチャー" を切り離してしまっています。チャールズ・カーターやマーガレット・ホーンそして初期の占星学学校などの、より啓発されたアプローチの中でさえもこのような考え方、つまり高次ーー低次の本質、ベネフィックーーマレフィック、良いアスペクトーー悪いアスペクトなどが語られ、人間関係の運命論的なとらえ方(第2ハウスの金星が木星とラインを造っていると結婚して財を得るなどの)が明白に残っていました。ユング心理学は垂直的ヴァーティカルというより全体性を考え、心のあらゆる次元に位置を与えるという点で、そのホロスコープの解釈はより健全なものに思えたのです。本書を著してからもユング派の分析家としての仕事を通じて、心のバランス、健全さ、平衡が保たれるには心の無意識的な次元も認識し統合されなければならないということを繰り返し実感させられました。他人を見る際、自分自身がまだ経験しておらず認識していない自分自身の延長としてではなく、他人としてあるがままに受容するということはいうまでもありません。
 本書を著した際、ユングの心理モデルと占星学による分野のいくつかの統合をはかりましたが、この10年間繰り返してその有効性を再確認してきました。ちょうど意識の四機能がそうであるように、占星学の四要素エレメントがホロスコープを構成するーーーつまりある特定のエレメントの配列をもったホロスコープを解釈する際、その出生図の骨子がまず描かれるその人物の成長過程のストーリーが展開していくという点については以前より確信が強まっています。意識の中の未発達の機能が引き起こすジレンマ、それがパートナー・両親・子供・友人などにたえず投影される過程こそが、私が最も興味をそそられる部分であり、問題を孕みつつも人間関係を豊かにする可能性を秘めたものであるように思われます。

まえがき P14-15


1 無意識の言葉

 我々の大半は自分自身を思考する人間だと思っており、自分についてはかなりのことを知っているつもりである。自分の徳や不徳をあげたり、長所や短所を並べたり、好き嫌いや目標とすることなどを評価する分には多分そうなのかもしれない。しかしこのように限られた範囲の自己概念でさえ多くの人々にとってはあまりにも大きすぎる。彼らは、自分で選んだわけでもない名前やその創造に全く関与することなくできあがってしまった肉体、単に物質的必要性や社会的条件さらには全くの偶然といった理由で決められた居住地以外には、自己認識をもたないまま人生をさまよっているかのように見える。
 しかし行動面で自分がどういう人間であるか、はっきりわかっている人の場合でさえ、とても興味深い現象が起こるのだ。そういう人にあなたはどういう人間ですかと聞いてごらんなさい。そしてもしその人物があなたや自分自身に正直ならーーーまずこの点からしてあやしいことがほとんどだがーーー彼は自分の性格を明快に描きだしてくれるかもしれない。しかし今度は彼の奥さんに彼はどういう人かと聞いてみるとよい。するとその答えは全く違う人物のことを話しているように聞こえるかもしれない。そこでは本人が全く気づいていない性格特徴が現れたり、本人の位置付けでは最も低く評価しているものが彼の人生の目標になったり、本人のアイデンティティとは相反する特質が言及されたりするのである。こうなると誰が誰をだまそうとしているのかわからなくなる。彼の子供の意見を求めてみるとまた180度違った人物像が得られるはずである。同僚からもさらに別の情報がつけ加えられるだろうし、仲の良い友人また、別の人物像を描き出すだろう。このような簡単な調査を行なってわかることは、我々の中で最も観察力があり、最も内省的な人物でさえも自分の心のレンズを通して見えるものだけを選択しているということである。そして我々が自分のことであれ他人のことであれ、現実に対して抱く概念は。いつもこの色付けされたレンズを通したものであるため、自分が考えているほどには自分のことをわかっていないのも当然のことなのだ。

P33


 フロイトの無意識の理論について誰が何といおうと、人の心には無意識的な認識の中にはおさまりつかないようなものが、多く含まれているという事実を認めないわけにはいかない。フロイトがいうように我々が本当に本能的欲求に駆りたてられているのか、またはアドラーのいうように権力への意志によるのか、あるいはユングのいうように全体性へと向かう衝動によって動かされているのかわからないが、ひとつのことははっきりしている。それは我々は最も深いところにある動機に通常気づいておらず、このような盲目的状態にいるため、他人の動機などはほとんどわかるはずがないということだ。
 意識・無意識という概念は肉体の器官とは違い、いわゆる分類区別のできない生きたエネルギーであるため、言葉で説明するのは非常に困難である。しかし人間の心は広大な隠された素材を含み、それは通常受け入れられなかったり見すごされたりする経路チャンネルを通してのみ連絡が可能なのだ。ほとんどの人は夢を理解せず、それを覚えておこうともせず、無意味なものとして考えてしまうことが大半である。また幻想はエロティックなもの以外は子供っぽいものとされ、エロティックな場合は罪深いものと見なされる。感情をあらわにすることは恥ずかしいことと思われており、病気から仕事上の問題まであらゆる言い訳でおおい隠されてしまう。
 人間関係という主題テーマについていうと、我々が心を探るのに最も重要な機能は、おそらく投影プロジェクションだと思われる。この言葉は映画関係でよく使われるが、そこで意味することは心理学で使う場合の意味の理解に役立つ。スクリーン上に投影されたある映像を見るとき、その本来の源である映写機内のフィルムやスライドを調べるのではなく、スクリーンに写された像を眺めそれに反応するのである。またその像を見るのを可能にしている映写機の光を見るということもない。同様にある人が自分の中にある無意識的な性質を他の人に投影するとき、あたかも他人に属していたかのようにその投影されたものに反応する。その原因を求めて自分自身の心の中をふり返る、などということは思いつかないのだ。その投影がまるで自分の外に在るもののように扱い、それによる衝撃は通常、非常に感情的な高まりを呼び起こす。なぜなら実際に直面しているのは自分自身の無意識的な自己だからである。
 この単純なメカニズムはポジティブなものであれネガティブなものであれ、他人に対して非常に色付けされた理性のない感情的反応を抱く時必ず作用する。このような無意識の特性を内向化し、認め、自分自身の中に引き戻し、他人のアイデンティティのぼんやりとした輪郭を掴めるようになるのは、一生かかる仕事である。そして自分自身の投影に基づいた反応により人間関係を築いたりしている間は、相手と親密になるどころか遠ざかっているだけなのだ。

P34-36


 それはなぜ自分の中にあるものを他人のせいにしなければならないのだろうか。それが悪い性質だと考えるなら理解できる。もし私が自分の中にある特質を嫌いであるとき、それを認めるのがつらいので気づかないままにしているとしたら、この無意識的な私の一面は外側から私と直面しようとすることでその力を現し、私を苦悩させることになる。良い性質をなぜ否認しなければならないのかを理解するのはもっと困難である。そのために心の構造とそれを司る法則についてまず学ばなければならない。ーーーその際、心理学が心について語らなければならないことはすべて、心がそのものについて語っていることに他ならず、それは、 "完璧な客観性" を不可能なものにしてしまうということをいつも念頭におくべきである。それでは再び我々の問題である投影に話を戻そう。
 自己エゴは、日常的で合理的な意識の領域の中心をなすものである。簡単にいえば自分が自分であることを知っている。または知っていると思うことである。

P36


 我々の大半にとって、自我エゴは自分自身について理解しているすべてであり、この立場から世界を眺めると、世界は自我の特定の視点に影響されて見える。違う見方をする人がいると、それは頑固で心が狭いとかわざと嘘をついているか、多分頭がおかしいとか正気ではないと思ってしまうのだ。
 自我は生まれた後にある一定の過程に沿って発達するようである。もし我々が完全に遺伝、条件付け、そして環境だけの産物だとしたら、同じ状況で生まれた子供は心理的にも全く同じになるであろうが、もちろん実際にはそんなことはあり得ない。

P37


 占星学でも個人の気質は誕生時に受けつがれたものだと考える。占星学を理解することが成人の自我へと発展していく種子の本質を見極める上で役立つかもしれない。それは我々が知っている自己について語るだけではなく、我々が知らない部分についても教えてくれる。出生図バースチャート象徴体系シンボリズムはまた、自我を通じて人生を経験し判断するという人間本来の傾向をも反映している。というのも出生図は太陽をその中心とするのではなく、地球を中心に据えたマンダラだからだ。それは言い換えれば、人生が本来どうであるかというより人生が個人の意識によってどう見られ、どのように経験されるかということを示している。
 大人になるにつれ、結局は自分の中にあるものなのに発達する自我とうまく折り合いのつかない多くの性質が現れてくる。こういったことは生きるために容認されなければならないことだが、親にとって受け入れ難いものだったり、宗教の教義と反するものだったり、社会的基準からはずれていたり、最後に最も重要なものとして自我が最も価値を置くものと相容れなかったりするのだ。このような受け入れられない性質のいくつかは、破壊的であるという意味で確かに否定的ネガティブ要素をもっているかもしれない。また中には肯定的ポジティブなものもあり、個人的、社会的に見て自我が構成しているものよりもはるかに価値がある場合もある。ある人はそうとは気づかないまま凡庸さに価値を置き、ユニークさや創造性が涌き上がってこようとするとその種を摘んでしまうことがあるかもしれない。あるいは自己イメージがあまりに控えめで、より目立つ性質が現れても無意識のかなたへと押しやってしまったりもするのだ。こういったことのすべてが適当な対象物の上に投影されるのである。

P36-38






人間 蜜儀の神殿

第18章 視覚、最も卓越した感覚

 これまで見てきたどの説にも能動的な要因と受動的な要因の両者が関係している。能動的な要因説にあっては見る対象物が目に跡を残す。受動的な要因説にあっては、目は見る物体を圧倒し、「消化する」。これらの説を妥協させよう努めてプラトン派の者たちは、見ようとするものには光を放射する作用があり、見る側のものも光を対象物から流出する粒子に浸透した後、引き返して印象を魂に伝えるとした。17世紀のある著作家はこの引き返してくる光をこう説明している。「光は反射する物体の表面から出る色素に浸透する。つまり、光は数個の微粒子を運んできて、・・・・微粒子は光と混合し、それと一緒に眼に入る。眼はその種のものを集めて一つにするのにふさわしい構造をもつ。そして眼から脳に至る道程は短いものに過ぎない。」
 新プラトン派は眼を、特に魂の諸性質を刺激するものが通る管だと考えた。ピュタゴラスの教えでは、病気は眼によって、つまり、視覚に対して色々な模様や色彩を示すことによって治すことができた。そのような模様はある気分を覚醒させたり、刺激したりし、肉体の化学変化をもたらした。美の感情は肉体全体を純化し、そうすることにより、不均整によって刺激され表面化した病気を治す。不具を見ていれば不具をもたらすのであって、それを治す唯一の策は、曲がっていると思っている形の上に美しい調和比例を重ねて、その形が持つ力を無にすることである。哲学者たちは、視覚による医療法の発達に大いに努めた。それは、美の観照を実践し、美の喜びの内実をなす調和、秩序、左右対称を魂に充満させることにあった。肉体の感覚が知覚できるのは、肉体がその感じ取る物の表面に触れて反射するためであるのに対し、魂は感覚器官を通り抜け、その欲する対象物、つまり、目に見える肉体がその外衣にすぎない諸性質と調和していくのである。

P325-326




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