見出し画像

真実だと思っていることは本当に事実なんだろうか。

わたしにとっての地下鉄サリン事件

14歳だったわたしはあの当時、連日の報道に何も疑問を持たなかったし、背景を知ろうともしていなかった。
ただ、すごいことが起こったなと驚きはしたけれど、なんとなく遠くの出来事のような気がしていたのかもしれない。
唯一オウム真理教のことで身近に感じたのは、高校進学後に高校の生活指導の先生が「出でけー!!」と叫びながらデモに参加していていたことくらい。

敬虔な信者だったのに過去の体験を失敗と捉えることができているのがすごいと思った。
また、その失敗の経験を再発防止(同じ構造があれば日本に限らず起こる可能性があるためそれを防ぎたい)のために活かしていきたいと淡々と話すそんな姿を見ていると、とても純粋そうな印象を受けた。
宗教活動や過去の経験からリセットのプロではあるのだろうけど、逃げない強さがあるなと感じるし、自分に呪いをかけることで生きる力にしているような気もした。

何かを信仰する、何かを信じるということは、突き進む大きな力にもなるけれど、暗闇に突き進む可能性もあるわけで、だからこそ「何か」を選びとる力と手放す力を鍛えていきたいと、この動画を見て強く思った。

個人的に麻原彰晃の発言からマイナス60年をすると過去の大きな出来事と重なるという考察や、当時の世の中の流れや空気感を知ることができて個人的にさまざまな色の驚きがあっておもしろかった。

ただ…何かが起きたとき、見聞きしたことは一部にしか過ぎなくて、本当のことは当事者にしか、当事者さえも分からないことがあるのだと改めて考えさせられた。


わてしにとっての和歌山カレー毒物事件

17歳だったわたしには衝撃的な事件だった。
当時、ニュースの情報を鵜呑みにしていたため、「すごい過激な人」という印象だった。
けれど、それは切り取られた一部に過ぎなくて、扱う人次第でそれをいくらでもねじ曲げることができるのだからこわいことだと思う。

やっぱり終わりがないってつらいこと。
終わらないと始まらないのだけれど、それが自分自身で終えられないもどかしさを感じた。



真実と事実

真実も事実もどちらもあいまいで不確かなもののように感じたが、そもそも確かなことなどあるのだろうか?と疑問がわいた。
真実にも事実にもふくみを持たせることが大切なんだろうな。
現在の真実と未来の真実は同じとは限らない。
人間を通して伝えられる真実は真実とは限らない。
それが全てとは限らない。

事実は、本当にあった事柄、現実に存在する事柄。
真実は、嘘偽りのないこと、本当のことを意味する。
意味は似ているが、事実はひとつで、真実は複数あると言われるように、事実と真実は異なり、一致しないことの方が多いくらいである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?