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# 62 悩める人間

先日、高校の同窓会の集合写真がメールで送られてきた。10年後には、写真は送られてくるのだろうか?
高齢者になると、皆が迫り来る死を自覚する。それをどう受け入れるのか?同窓会で囁かれたはずだが、結論があるわけでもない。
皆自分の人生に意味を持せたい。しかし、自分を取り巻く世界には意味があるわけでなくて、淡々と時間が過ぎてゆく。自分の人生に意味を持たせると言うのはバイアスなのかもしれない。
友人Aが投資資金をかき集めて盛んに店舗を増やしている。友人Bは「もういい年なのだから、そこまでしなくても良いのでは」と言った。Aは黙っていた。今回は人生の意味とか目的について考えてみたい。

漸進法で進める。

1。友人Aは死ぬまで経済活動をするし、目的を持つし、人生の意味を追求するはずだ。動物は目的も生きる意味も考えてはいまい。だから目的を持ったり、生きる意味を追い求めるのは人間である証拠なのだ。
2。猫が日向ぼっこして、幸福そうだ。ある哲学者は「人生に意味など無ければ、ずっと生きやすくなるだろう」と述べている。生きる意味を追求するのは勝手だが、皆がしているのでもないし、しなくては人間でないなどと言うのは妄想だ。
3。妄想なのだろうか?別の哲学者は「関心を惹くのはあるがままの人々の姿ではなくて、彼らが何になりうるかと言う点だ」と述べている。また彼は「何よりまず、人間は実存し、不意に出現し、舞台に現れ、その後になって、ようやく自分を定義する」と述べている。多かれ少なかれ、自分の人生を選択しているのだ。言い換えると生きる意味を求めているのだ。
4。彼は「実存は本質に先立つ」と主張しているのだが、何か違和感がある。人間は全てが生まれ出た段ではゼロベースと言うつもりなのだろうか?
経済的な環境も、家庭も、国も、言語も、宗教、個人の遺伝的に受け継いだ容姿や能力も本質に織り込まれているのであり、実存の前にある。本質があり、それが不均一だからこそ、この世に不満や、不公平や不公正が消えてゆかないのである。
ある哲学者は「人生に意味を求める感性と、全体として宇宙では意味などないという認識とのギャップ(彼はそれを不条理と述べている)を受け入れるべきだ。受け入れる事で、宇宙の無意味さに絶え間ない反抗するエネルギーが生まれて、自由に生きられる」
人生は矛盾だらけだ。それを克服するには不条理を受け入れ、人生に意味などなければずっと生きやすくなると自覚することだ。まさにムラのある本質を織り込んだ人生観であり、反抗が何よりも人間的で自由を求める行為であると言っているように思える。
5。反抗は多くは男性社会の価値観の様にも思う。
6。反抗が男性の特権であるとは言えない。
冷静な表現で合理性の下に、ありとあらゆる非合理的な性的衝動が煮えたぐっていると主張する哲学者がいる。彼女は「あらゆる欲望は狂気に関連している」と主張している。男性が社会を牛耳っているということだ。別の哲学者『男は人間として定義され、女は女性として定義される」と述べている。彼女達の発言にはハッとする。女性が社会と格闘をしている様は男性にはなかなか見えてこない。女性も絶え間なく反抗している。
7。ところで、「実存は本質に立つ」と言うサルトルは人生を選択する自由と同時にその選択の及ぼす影響に責任を持つべきと言っている。この自由と責任のリンクは受け入れられない人が多い。もっと楽観的に考えて、反抗に破壊が伴っても自由のためなら受け入れられる、と主張する人が西欧には多いのだ。
例えば、フランスで昨年3月下旬、「デモの聖地」と呼ばれるパリの共和国広場。受給開始年齢を62歳から64歳に引き上げる政府の年金制度改革への抗議はやまず、大規模デモは10回目となった。年金の減額を政府が意図した際に、暴動が起こり、路上に黒煙が立ち上った。フランス人は年金は自分たちの権利であり、許せない、暴力に訴えて当然だ、と言うわけだ。
これを報じた海外mediaの映像に「こんな暴力を認めるのか?」と言う気持ちになった。サルトルが大人しい、悲観主義者と言われる所以もわかる気がした。

生きると言うことは東洋と西洋ではだいぶん違う様です。

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