55 悩める人間
哲学というと腰がひけてしまうのだが、そんな哲学とか、物事を抽象的に捉える楽しみを味わってみたい。
事物が存在することを前提にして、人間の認識はその鏡であるして、(客観が主観を構成する)と昔から考えられていた。ところがカントは真逆の (主観が客観を構成する)と主張した。このような(認識論)の変革は哲学の「コペルニクス的転回」とも呼ばれている。
小難しいのだが、具体的に噛み砕いてみる。
漸進法で進めて行く。
1。例えば絵画を考えてみる。セザンヌの風景画は球体とか立体の3次元形態の集合体である。結果、空間も時間も見事に描きこむことに成功している。
一方で、ゴッフォの最盛期の作品は曲線の集合であり、それが独特の色彩とマリアージュしている。
彼らが同じ風景を描写しても、全く違っているはずだ。
個人でも心(主観)の変化で表現は変わる。
ゴッフォの若かりし頃の作品は、暗い色彩で、同じ人間の作品とは思え無い。
極貧で、アルコール依存症に陥っていた頃のユトリロの絵画は孤独感が滲み出ていて、誰もが感動する。しかし、ある程度の評価を受けた後の作品は違っている。
ビッフェは同性愛に悩んでいた頃の作品は有名だ。名声を博した後の作品は様変わりしている。
要するに個人においても心の変化により、表現は姿を変て行く。
そのような美意識の世界だけでなくて、あらゆる物事の認識は主観により違ってくる。そんな認識をカントは(主観が客観を構成する)と表現している。
まるで、現代の脳科学を先取りしている。
2。科学や数学を考えた場合にカントの認識論はどの様に解釈すれば良いのだろうか。矛盾するのではないか?
3。彼は人間には素材を「時間」と「空間」というアプリオリな形式を通して受容する感性があると主張する。この「時間」と「空間」を受容する感性は客観世界にあるのではなく、認識主観にあらかじめ組み込まれていると考える。その規格が共通だからこそ科学や数学が客観性をもつというのだ。
要するに、科学における客観性も、美意識に関わる普遍性も全て個人の主観に組み込まれている共通規格があるから成り立つと言うことだ。。
4。時空の観念がニュートン力学と違ってきた訳で、時空という形式を通す共通規格という基本は揺らぐのではないか?
5。現在の物理学を見渡すと、時空をアプリオリとする概念からはみ出ている。むしろアプリオリという概念に固執しないで、主観に組み込まれている共通規格という部分が科学の客観性や美意識の普遍性に関わると脳科学を織り込んで私は考えている。
6。カントはすでに時代にそぐわ無いと言うことか?
7。いや、カントの(主観が客観を構成する)という部分は動かせ無い真理であり、まさにコペルニクス的転回であったと思う。主観に内在する共通規格が科学を可能にしている。
8。生成AIなどの進歩により人間の居場所はなくなるのではないだろうか?人の価値は薄れてゆく様にも思う。
9。人間の生き方に関しても心には共通規格があると思う。それが科学の進歩で変容する。しかしながら、生き方の極論がぶつかり合い、共通認識としての中庸が生まれる。それが基準となって、我々に生きる目標を示してくれるはずだ。
10。共通認識というと、没個性的であり、創造性に抗う様に感じるのだが!
11。だからこそ、共通認識はとことん問い正して、吟味しなくてはならない。
科学では再現性を確認しなくてはならない。
人間社会では、それぞれの生活基盤にもライフスタイルにも権力構造にも習慣にも、これで良いのだろうか?と問いただすのは生やさしいことではない。しかしながらそれを行はなくては納得しない時代になっている。自民党の裏金問題は、自民党の甘えとか脇の甘さから慣例となっていたのであるが、国民の意識の方が遥かに進んでいたことに狼狽して、揺らいでいる。
置かれている立ち位置を見直し、吟味して、公平性とか公正性にまで突き進め無かった自民党は旧態然と言われても仕方ない。
12 共通認識と共通規格は同じように写る。
13。似て非なるものであり、共通規格は主観(心)に組み込まれた共通の形式でありシステムである。共通認識はシステムではない。共通認識は人間に組み込まれれている共通規格を通して、感性で受け止め、知性(悟性)で情報処理を施し、多くの知性を組み合わせて、到達する、理性とも客観性とも呼ばれるものだ。
14。言うことは難しすぎる。それが例え真実だとして、我々に何をもたらしてくれるのだ。
15。私の心(主観)が世界を構成するのだから、幸福な世界も私の心しだいと言える。
また、他と共感出来る素質が組み込まれている訳だから、共感する喜びを味わいたいものだ。
聖書などを紐解き、神の心と接することも人間の心には備わっているのかも知れ無い。
16。要するに人間バンザイと言うことを言いたいのだろうが、哲学するご利益はそれでは不十分だ。そんなものに関わるのはめんどくさい。
17。カント哲学からになるのだが、心には客観を受け入れる共通規格、いわゆる共通のシステムが組み込まれている。それが、科学するし、美しいものを共有できるし、人間の生き方に共感をもたらす。しかし共通認識は人間に組み込まれているのではない。言い換えると理性や古典と評価される芸術、道徳は人間に備わっているものではなく、作り上げられたものである。
客観的と思われる共通認識は時間と共に変わって行く現象であり、あるものは固定概念として、乗り越えの対象にもなる。
人間は共通認識から逸脱す、固定概念から解放される自由を持っている。
ジェンダーとか黒人問題とかテロなどを考慮すると、それらに関する共通認識も時間と共に変容してゆくということは、なんとなく分かる。要するに、哲学するということは、心にある共通規格システムを通して、感性から知性に、さらには理性に客観性に到達する道筋をとる。
18。哲学は抽象化して物事に接するのであろうが、具体的に物事を捉えた場合、理性や客観性に到達でき無いのであろうか?
19。確かに、抽象化した方が客観性に到達しやすい。よく、客観的に考えろと言うが、厳密には抽象的に物事を捉えろということでもある。
しかし、具体的に物事を進める過程で、心に組み込まれている共通規格システムを無事に通過するのなら、インパクトのある感動を伴い、客観性に到達できるのだろう。
20。共通規格システムが拒否反応を示すことはないのだろうか?それを通過していないと警告を鳴らすことがあるのか?
21。心のこのシステムを無難に通過するか否かの話になる。
小説を例にとると、リアリテーがある無しで、反応が違ってくる。それを感じ無いと共通規格システムは拒否反応を起こすこともある。日常の経済活動においても、いい加減な場合、この心のシステムは信用し無い、受け入れ無い。
22。共通規格システムを血も涙もないと言う人もいるのだが。
23。その様な人は、自分なりの自己満足とも言える結論に無理やり誘導したいのであろう。共通規格を通すことなく、個人的な非共通な規格を通した結論は世界中に蔓延している。それは暴君が陥る奈落でもある。共通規格システムはその様な主張を認め無い。それを認めさせるには暴力による圧政しかない。暴君の取り巻きは「無事まとまっているのだから良いではないか、」と言う。しかし、共通規格システムはそんな考えを認め無い。
24。しかし、それは歴史的に見ると違っている。国民が権力者により権力者が唱える短絡思考に誘導されてしまう。歴史はそんな繰り返しだ。
25。それは後ろ向きすぎる。歴史的思考は事実を述べているだけでなくて、解釈により千差万別なのだ。視点は人間の将来に向けるべきだ。
26。反対だ。温故知新という意味を思い出してもらいたい。
27。共通規格が心に刻み込まれているのと同様に、非共通規格も刻まれている。そんなシステムを介して生まれる理性と短絡的理念のせめぎ合いは古今東西、存在し続けている。
29。哲学することが歴史の、生活のほんの一部であることは認めなくてはなら無い。しかし、人間の進歩を大局的に捉えると、哲学は必要なのだ。
今回もなんだか結論がある様な、ない様なことになりました。哲学する事は必要であると言う事にとどめおきます。誰もが一生、何だかんだで哲学しているのではないかと思っています。
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