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# 60 悩める人間

殺生(せっしょう)について以前から引っ掛かって、漠然とした気持ちを持ち続ける自分に今頃になって気付いた。考えてみたい。

漸進法を選ぶ。

1。仏教では殺生「せっしょう」とは生き物を殺すこと。仏教の戒律では最大の罪のひとつである。殺すのも、殺させるのも、殺すのを傍観するのもすべて同罪、地獄行きなのだ。
私が研究で実験に使った動物の事を思うと、フラッシュバックしてくる。殺生した私、また私たちにそんな実験をさせた人、その結果を傍観していた人々、全てが地獄へ行かなくてはならないはずだ。
仏教的には人間は須く地獄に落ちて辛酸をなめることになる。
2。何かおかしい。ベジタリアンになれということか?
3。穀物を栽培する際に肥料の中には多くの動物性蛋白が含まれているのであり、殺すのを傍観していることにはならないだろうか?
全てが地獄の門を潜らなくてはならない。
4。先日、ピーターシンガーというオーストラリアの哲学者が『苦しむ点では動物も私たちも同胞だ」と言っている事を知った。彼は動物実験が正当化されないと主張している訳ではない。「最大多数の最大幸福」という功利主義的観点に立ち 動物実験の帰結に照らして考えるべきだと述べている。この考えを、動物実験をしてきた当事者はどう捉えれば良いのだろう?仏教のような厳しさはなく、救われる様な気分にもなるのだが。
しかしながら、結果の出ない実験で多くの動物が犠牲になっているはずだが、それを功利主義はどう織り込むのだろう?
5。その辺を含んで、功利主義の意味をザックリで良いから理解しないで、受け入れるのは無謀すぎる。
功利主義は複雑である。この主義の根本は幸福への追求であり、大昔から古今東西、巷に流布する考えでもあった。それが思想として体裁をなしたのは18世紀であり「最大多数の最大幸福」という言葉に集約されて行った。しかし、その思想は当初、社会的な幸福すなわち一般幸福と個人的な幸福とが一緒くたにして議論されていて、個人の幸福に関しても漠然であるが平等に扱っていた。未完成なものであった。
当時は識字率が低く教育が行き渡っていなかった。そんな中で、個人を平等に扱い、投票権を与えることは不条理という批判もあった。ある功利主義者は貴族には2倍の投票権を付与すべきと主張した。同時に、個人的な幸福と一般幸福を峻別して、「最大多数の最大幸福」と言う概念を深掘りする。更に個人的な幸福は利己主義とも言えるものであるが、一般幸福は利他的な行為から導かれるとした。どちらかを選ぶなら後者を優先すべきと主張し、社会主義や共産主義との互換性を仄めかした。
しかし、後に、一般幸福と個人的幸福は交わることがない、並列状態だとして、どちらかを選択するとしたら個人の幸福を選択すべきという考えが現れる。競争を否定する共産主義や社会主義の考えには真っ向から対立したが、その一部の利点を受け入れる社会づくりには理解を示している。この考えは、今の世界に通用する思想である。古典的功利主義が完成した。
6。では、初めに言及した殺生(せっしょう)をどう捉えるのか、教えてほしい。
7。ピーターシンガー氏は最終的には菜食主義を薦めている。
動物実験を功利主義的に考えると言うことは適切なのだろうか?
この考えは「勝てば官軍負ければ賊軍」に通じる訳で、功利主義には正義を論じるには根本的に欠陥があるのではないか?
そんな疑問から批判が相次いだのだが、その一部を眺めてみる。
某氏が哲学者ロールズの功利主義批判の要点を,下記の三点にまとめた。
(1)功利主義は正義についての常識的な信念を 適切に説明できない,
(2)一個人の選択原理を社会選択の原理に拡張する功利主義は原理的に分配的正義の考慮を欠く,
(3)目的論的理論としての功利主義は正義に反する欲求も等しく考慮に入れる.
(4)功利主義は 各人の平等な自由を尊重するリベラリズムではないという決定的な欠陥がある。
難しい表現なのだが、功利主義は善の足し算をして行くので目的論的ということなのだが、その足し算の執着点が最大化であり、正義に行き着く。
しかしながら、それは一部の者に自由や恩恵をもたらすが、それを享受出来ない人が出ることは歴然としている。正義は普く平等、公正に自由を尊重するもので無くてはならない。
更には、私の行った動物実験が成功すれば正義であり、成功しなければ正義ではないと言うわけだ。正義は何なのだと言う事になる。
8。動物実験を道徳や倫理の規範で捉える事には無理があると言うことだ。
9。いや違う、目的論的にそれを捉えるからそうなるのであり、義務論的に捉えれば自ずと結論に導かれる。
 C.D. ブロードは,義務論と目的論を次のように分けた.
『義務論は次の形式の倫理的命題があることを支持する.「かくかくしかじかの種類 の行為は,その帰結のいかんにかかわらず,かくかくしかじかの状況において常に正 しい(あるいは不正である)」。目的論は,内在的に善いまたは悪い帰結を促進 する傾向によって,行為の正・不正が常に決定されることを支持する。』
と言うことは、私の行った動物実験はその結果に左右されることなく、正義かそうでないのか判断されるということである。色々と意見が戦わされているのだが、将来、それは結論を得ると言う事になる。それならば、私的にはたとえ、自分のやったことが不正と判断されても納得する。正義を云々するに義務論はわかりやすいし、納得できるし、せざるを得ない。
10。世界中で採用されている選挙は「最大多数の最大幸福」を基礎としている。と言うことは選挙は必ずしも正義に導くものではないと言う事になる。それは平等に人々に自由をもたらすものではないと言う事にもなる。そうなると、選挙制度に限界が見えてくるし、そこを基本とする民主主義の全貌も見え隠れしてきた。それに代わる制度を主張して独裁者は正義の代弁者であると宣言するのだろう。これは危うい。
選挙制度や民主主義は代替が見つかるまで続けるしかない様だ。

動物実験から話は膨らみ、選挙制度や民主主義の限界にまで言及してしまった。動物実験の意味は深く広く重い。

今回も予期しない結論になってしまった様です。動物実験というのは分かりにくいテーマだったかも知れません。



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