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小竜景光の来歴を語ると泣いちゃうおじさんの話

この話は小竜景光の来歴や逸話ってしんどいよねって言いながら、多分こうだっただろう、そうだったらいいなぁ、こうかもしれないという、小竜景光に更に自分で呪いをかけてはしんどくなってしまうというどうしようもない審神者の話なので、小竜のしんどい話が読みたい方と、私の愚かな愛を読みたい方はどうぞお楽しみください。

まずは小竜景光の来歴を詳しく調べてくださっているこちらのTogetterをどうぞ。1番まとまっているかと思います。既に読まれている方も多いかもしれませんが。https://togetter.com/li/1837892(すみません、リンク貼れないみたいです)

まぁしんどいしんどい言うて自分でソースも調べずにネット上の知識だけで語ろうとしてますから、そんな感じの内容ですよ。脚注もないですよ?大丈夫ですか?

さて、改めてこのまとめを見ると、農家にいたのもソースがない……!農家にはいといてくださいよ!マジ農家にいたって話結構いい話だと思ってたんですよ!……と初手から錯乱しましたが、まぁ500年近く所在不明だったのを誰かが本阿弥家(刀剣の鑑定人)に持ってきたようですね。その誰かが小竜景光を現在に残した、と言いましょうか、激動の運命に放り込んだ一番の立役者だと思うのですが、誰かはわからないんですね。しんどい。
本阿弥家で折り紙を付けられる(鑑定される)前に中村八太夫さんという方が買い取ったようですね。中村八太夫さんは詳しく存じ上げないのですが刀剣に詳しいコレクターの方のようですね。またここで折り紙を付けられる前に買い取られてしまったから、『本阿弥に折り紙を付けてもらえなかった』『毛利家に買い取られたけど返品された』という逸話が付いたのかなと思いますね。これは小竜景光の価値を上げる逸話というよりは、元主である中村八太夫の鑑定眼を上げるための逸話な気がしますね。本阿弥も毛利家も見抜けなかった刀の価値を見抜いたんだぞ、という感じで。
そして中村八太夫の死後に山田浅右衛門の手にわたります。6代吉昌ですね。山田浅右衛門はいわゆる首斬り役人ですが、死体を扱うことから試し切りも行っており刀剣の鑑定もしていたとか。ここらへんで楠木正成の佩刀という逸話が盛られたのではないかとも考察されていますが、私は多分本阿弥のところに持ち込まれたときからそういう噂が既にあったのだろうなと思います。500年ぶりにいきなり出てきた長船景光の最高傑作級の刀ですからね。大阪あたりにあったのだとしたら、豊臣秀吉や楠木正成などのビッグネームが所持していた刀かもしれないと思うのはとても自然に思えるんですよね。そして秀吉所持はソースがないからすぐに否定されても、楠木正成所持の方はソースもないけどはっきり否定する材料もないから逸話として残ったんだと思います。なので6代吉昌は楠木正成所持のソースを頑張って探した、というか偽造したのかなと。まぁ6代吉昌が小竜景光を買ってから井伊家に献上するまでが早すぎるので(買ってから数か月なので)、買う前から何らかの話が付いていたのでは?とも思いますが。あとは山田浅右衛門が小竜景光の経歴を盛ってまで井伊家に親戚を召し抱えてもらうメリットもそんなにないんじゃないかなとも思うんですが(山田家お金持ちだったらしいですし)、まぁそこは邪推なので、とにかく井伊家は来歴がどうでも小竜景光がほしかった、ということですよね。
さて小竜景光を手に入れたのは井伊直弼の父(本当は兄)の14代直亮ですね。井伊家にいたのは1846年から1851年までの5年(定説では1860年までなので14年)。さて、小竜景光がかつての主と呼ぶのは井伊直弼でしょうか?井伊直亮でしょうか?まぁ刀剣乱舞くんは諸説あるという姿勢なので定説通り直弼ってことにしときましょうか。井伊直弼が生没1815〜1860年。13代直中の14男なので自分のことを埋れ木(世に出ない木の根のような存在)と例え、それでも腐らずに剣に茶道にと研鑽を積み重ねてきた青年が、35歳で彦根藩主となり、42歳で大老となり、安政の大獄を経て44歳で桜田門外の変で殺されるまで見ていたんでしょうかね。
そして井伊直弼の死後、小竜景光は山田浅右衛門に返されます。この時は7代吉利ですね。この吉利は安政の大獄の罪人を斬首しています。橋本左内や、もちろん吉田松陰も。吉田松陰は斬首の前も落ち着いており、7代吉利は殺人や窃盗などの重罪人ではなく、憂国の士の首を斬ることに葛藤したのかもしれません。わかりませんけど。その葛藤を、処刑を命じた井伊直弼が殺されてから山田家に帰ってきた小竜景光が後から聞くのと、安政の大獄の頃には既に山田家に帰ってきていた小竜景光が直接聞くのと、どっちが辛いでしょうかね。いやどっちでもしんどいわ。
更に桜田門外の変ですね。これはざっくり言うと尊皇攘夷思想の急先鋒で朝廷とも仲が良かった水戸を弾圧した井伊直弼が、水戸の浪士に討ち取られる事件です。小竜景光しんどいポイントは水戸と井伊直弼の対立ですね。水戸の2代藩主光圀(いわゆる黄門様ですね)は、水戸学の基礎を作った人物であり、楠木正成を崇敬し、その墓を湊川に建立した人物です。楠木正成を天皇の忠臣と高く評価したとか。小竜景光としては元主のことを思ってくれる、かつての主の忠義に報いてくれた人々なわけですよね。またそのおかげで幕末の志士には楠公は大人気でしたし、坂本龍馬も吉田松陰もお墓参りに来てくれているわけですよ。しんどい。井伊直弼は元主を思ってくれている吉田松陰を殺すし、水戸を弾圧して水戸に殺されるわけですよね。しんどい。お互い国の行く先を真剣に考えてるだけなんですけどね。しんどい。桜田門外の変を直接見るほうがしんどいのか、山田家に帰ってきてからその顛末を聞くほうがしんどいのか、どっちでしょうねえ。
そして小竜景光は1873年に皇室に献上されます。これは楠木正成ゆかりの刀であるから皇室へということでしょうね。しんどい。明治天皇に殊の外愛された刀だった、というのはソースがない話ですが、これも楠木正成の佩刀だったからでしょう。明治天皇は湊川神社を創健してますからね。
そして時代は戦争へ。楠木正成の軍略家や忠臣というイメージは天皇のために命を捧げる軍人の象徴となり、軍神として祭り上げられましたね。
さて戦後は、国のために死ぬなんてとんでもないことだとみんな言いますね。戦争前から言い続けてくれよな……。まぁ言い続けた人はみんな殺されたんでしょうがね。そして『滅私奉公』『軍国主義』の象徴である楠木正成は人々から疎まれるようになり、銅像が壊され本からは削除されたりします。
小竜景光は第二次世界大戦後に東博へ移り、1949年に旧国宝、1952年に国宝に指定され、現在も東博所蔵です。
皇室が、軍国主義の象徴である主を持つ刀を所持しているのは、外聞が悪いですもんね。

そんな、全っ然根拠のない来歴を付け加えられてしまったが故に人間に振り回されまくった刀が、小竜景光です。

………。
………………。

うわぁぁぁお前を折って私も死んでやるぅぅぅ!そんでもって本阿弥のところに小竜景光が持ち込まれないように歴史改変するぅぅぅ!!(錯乱)

となるので、小竜景光の来歴を語って泣いちゃったおじさんの気持ち、とってもよくわかるなと思います。

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