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「桜を見る会」から「日本学術会議」までに共通すること

noteに書いたっけと思って振り返ったら、2019年12月11日に、togetterでセルフまとめを作っていました。

再録すると以下のとおりです。

 昔、ある官僚から、「環境庁は、政府に批判的な団体に助成金を出さないよね」と、当然のように聞かれたことがあります。環境団体に助成金を出す「地球環境基金」を作ったころのことです。
 わたしはこの言葉に激しい違和感を覚えました。課題解決力、実行可能性など、プロジェクト助成の判断基準を満たしていれば、その団体が政府に批判的かどうかは無関係に助成されるべきと思ったからです。
 政府が意思決定を行う際には、できるだけ意思決定の基準を明確にして、そのルールにしたがって意思決定をする必要があります。ルールへの適用において裁量の余地が残る場合はありますが、裁量の余地はできるだけ小さくしておくべきです。
 役人の裁量の余地が大きければ、そこに腐敗が起こります。裁量を持っている人の顔色をうかがい、忖度する人が増えます。面と向かって批判的なことを言えない組織になります。「裁量からルール」が重要です。
 ルールを運用するためには、ルールが適切に運用されているかどうかが確認されなければなりません。そのために、きちんと記録が残すことが必要です。公文書を一定期間にわたって保管することはあたりまえです。
 「反社会的勢力」の定義がそのときどきで変わるというのは、「反社会的勢力」かどうかを裁量で決めるということです。きわめて危険な考え方です。公権力を用いて抑圧すべき「反社会的勢力」かどうかの判断基準は、ルールで決めておかなければなりません。
 「政府に批判的な勢力」=「反社会的勢力」と解釈され、公権力を使って「反社会的勢力」の抑圧が行われ、その判断の根拠たる公文書も保管されない国家は、もう法治国家とは言えないでしょう。そのような状況にすでに陥っているのではないでしょうか。
 ちなみに、冒頭の官僚は若き日の今井尚哉氏です。

地球環境基金が作られたのは、1993年5月です。ちょうど、環境基本法案を国会に提出した頃ですね。わたしは、環境庁でこの法案の通産省担当でした。通産省の窓口の課長補佐が今井氏でした。わたしは係長でしたけど。

日本学術会議の6名の任命拒否について、わたしが問題視しているのは、拒否の基準と、その基準への個別ケースの当てはめ根拠が明らかになっていないことです。「総合的俯瞰的な活動が確保できない」という理由が提示されましたが、説明になっていません。

政府が十分に説明しないため、これら6名の学者は総理から任命拒否を受けるくらいだから、日本の国益を害するような活動をしていたのだろうと思うひとも現れています。

6名の学者は、その分野で業績を成し遂げた方々ばかりなので、専門分野についての知識をもたない人々におかしなレッテルを貼られても、あまり影響がないかもしれません。しかし、政府に目を付けられて、ネットのやり玉に挙がったら、根拠なくたたかれるということが横行すると、とくに、まだ、自分の居場所を確立できていない若い世代が、社会的な発言を行うことを躊躇してしまうことになり、言論が萎縮していくことになるでしょう。

この問題があきらかになってから、日本学術会議のあり方が問題なのだという論点ずらしが行われています。思考力の弱い人はまんまと乗っかってしまっていますね。

嫌いな投手はストライクを取らない=判断基準を示さずに恣意的に任命拒否する、投手の出来が悪いから変えるべき=学術会議のあり方を見直すべき、という論点のすりかえが行われているわけですね。日本学術会議のあり方が問題なら、別途議論すればいい。推薦の方法が問題なら、示された推薦全部を保留して見直せば良い。でも、6人だけ任命拒否したわけです。これが問題なのです。

で、冒頭の「桜を見る会」のときにおこなった連続ツイートを思い出したわけです。このときも、「反社会的勢力」の定義は状況によって変わるというびっくりするような解釈が示されたのですね。今回の日本学術会議の件に、今井氏が関与しているかどうかはわかりません。でも、若き日の今井氏が持っていたような考え方が問題の根底に流れているのです。

今の政権は、政府にとって耳の痛い提言を行えるような勢力を次々に無力化してきました。本当に危ないです。


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