見出し画像

国道16号を走りました。車じゃないよ。(その4)

国道16号線を走ったり歩いたりして、自分の足で経験する旅の最終回です。前回は、千葉から富津まで走りましたが、今回は、横浜から走水までの折り返し含め約35kmです。2021年1月1日に走りました。いつもなら、帰省しているのですが、今年は、コロナの関係で帰省は自粛です。いつもの正月は地元で開かれる5kmのマラソン大会に、15km走って行って参加しているのですが、その代わりに国道16号の残り区間を潰すことにしました。

地図

画像1

左上 スタートは横浜駅、箱根駅伝コースにあるネコ像 右上 高島町の交差点に16号の起点らしいものがなかったのですが、出張所区分表示がありました。 左下 JRの高架の向こう側にみなとみらい地区 右下 久しぶりの距離ポスト

横浜市内は、明治以降の近代化に関するさまざまな史跡が残されていますが、16号沿いには、指路教会、馬車道の近代街路樹発祥碑がありました。尾上町から右折して伊勢佐木町のあたりを過ぎます。怪しげな店がいろいろありましたが、写真は自粛します。

画像2

左上 JR高架下、ランナーが抜いていきます 右上 指路教会、1874年創立、建物は関東大震災のあと1926年に再建したもの 左下 馬車道にある近代街路樹発祥の地、1867年だそう 右下 昭和63年度のおむすび

吉野町三丁目で左折して、磯子方面に進みます。中村橋のはんこ屋さんの店先には、古い停留所ポストが残されていました。バスか市電かはわかりません。ユーミンの歌で歌われたドルフィンがある山手地区は、この道の左側です。丘陵を迂回する形で磯子にむかうことになります。堀割川に沿って進みますが、この川は明治時代に人工的に開削された運河になります。

画像3

左上 中村橋に残してある古いバス停 右上 磯子火力を臨む、ドルフィンのある山手のあたりは国道16号から川を挟んで左手 左下 国道16号沿いにやけにある看板、よほど儲かっているらしい 右下 横浜市電保存館

16号脇に横浜市電保存館がありました。下図が市電の路線図です。ちょうど、高島町ー尾上町ー吉野町三丁目ー中村橋を通過して杉田まで、国道16号になった道路にそって市電が走っていたことになります。市電の最盛期は1950年代。国道16号が千葉区間を含めて全線がつながった1972年には全廃されています。横浜市内の国道16号区間は、市電の歴史を上書きしていることになります。

画像19

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yokohama_municipal_Tram_Map.png

磯子の工場地帯を遠くに眺めましたが、国道16号は工場地帯に向かわずに、横須賀街道(浦賀道)にそってすすみます。その1でも触れたように、最近、関東近辺の街道ランをしているのですが、横須賀街道は他の街道と比較しても歴史の匂いが十分に残った街道といえます。おそらく街道部分あたりが、海岸線だったのではないかと思います。「浜」停留所がありました。安藤橋の説明板には、明治32年(1899年)に着手された埋立工事が大正13年(1924年)に完成した際に、埋立工事の施工者の名前をとって安藤橋が架けられた。磯子の歴史はこの埋立工事に始まる。その後、昭和38年(1963年)の埋立工事で安藤橋がなくなり、それを記念して親柱を残す、ということが書かれています。明治期の埋立工事でできた海岸線が、今の16号のラインだったと思います。

画像4

左上 磯子の浜停留所 右上 安藤橋 左下 壁のようなマンション 右下 金沢区にはいる

ごく短い柏隧道を除けば、富津から横浜までトンネルはありませんでした。ようやく久しぶりのトンネル富岡隧道です。この先、横須賀までいくつものトンネルを通過することになります。富岡には八幡宮や六地蔵がありました。六地蔵は、もともとは集落と集落の境に置かれていたようです。また、この辺りから、京急の赤い電車と並行することになります。車だけで結ばれた千葉の”ニュータウン”よりも生活の質が高いように思います。

画像5

左上 富岡隧道、1976年完成 右上 昭和58年のおむすび 左下 富岡六地蔵 右下 京急の赤い電車

金沢八景にはいると昔の観光地だった面影が残っています。金沢八景の名称は、1694年に水戸光圀公に招聘された中国の僧がこの地に来遊した際に、故郷の杭州西湖に風景になぞらえて八景を吟じたことに由来すると、案内板にありました。鎌倉幕府以来の観光地だということです。

画像6

左上 泥亀(でいき)と読むそうです 右上 姫小島水門、天明年間(1780-1788)に建設されたものを復元したもの 左下 その案内板 右下 姫小島跡の案内板 照天姫がこの島で松葉いぶしの難にあったとあります。

とくにその面影を残しているのが、琵琶島神社です。源頼朝の妻、北条政子が琵琶湖の竹生島の弁財天を勧請して海中に島を築いて建てたということで、13世紀から伝わる由緒ある神社です。

画像7

琵琶島神社 左上 鳥居 右上 本殿 左中 金沢シーサイドラインが走る 右中 アマモ再生エリア 左下 本殿のあるところから国道16号方面を見る 右下 琵琶島神社から国道16号を挟んだ向かいの瀬戸神社

国道16号線は、追浜を過ぎると多くの隧道をとおることになります。傍示堂の脇にある説明板によると、昔、浦賀道と呼ばれていたころは、このあたりは険しい山道で、浦賀道は尾根筋を通っていたということです。浦賀道は東西二本走っていて、西側の浦賀道は東海道平塚宿から鎌倉経由で浦賀にはいり、東側の浦賀道は東海道保土ケ谷宿から金沢、田浦を経て浦賀にはいっていました。つまり今日、走ってきた国道16号線は東側の浦賀道に沿っていたと言うことになります。

画像8

左上 追浜の傍示堂の石塔群 右上 浦賀道の説明板 左下 雷(かみなり)神社 右下 追浜のアーケード商店街

画像9

左上 浦郷隧道 中上 田浦警察署のマスコットがかわいい 右上 船越神社、初詣の飾り付けがされています 左下 船越隧道 中下 田浦梅の里の案内板 右下 吉浦隧道

いくつものトンネルをくぐって横須賀にはいります。一挙に、アメリカナイズされます。国道16号から海側にでると、ヴェルニー公園があります。フランスの技師で江戸幕府から頼まれて1865年から横須賀造船所の所長をつとめたフランシス・ヴェルニーを記念する公園です。手前に海上自衛隊の基地が、湾を挟んで向かい側に米軍の海軍施設が置かれています。米軍の海軍施設が置かれていたところに、昔は、横須賀造船所があったということです。ちなみに、JR横須賀駅は、ヴェルニー公園の脇にあって、横須賀の市街からは少し離れています。

画像10

左上 ヴェルニー公園から臨む海上自衛隊の自衛艦 右上 ヴェルニー記念館、フランスブルターニュ地方の住居を模している 左中 ヴェルニー記念館内のスチームハンマー 右中 海中から引き揚げられた戦艦陸奥の主砲 左下 ヴェルニー公園から臨む海上自衛隊の自衛艦 右下 向かい側は米軍基地、潜水艦のようなものがいる 

横須賀らしいところを見ようと、国道16号から一筋山側の「どぶ板通り」にはいります。スカジャンの発祥地ということです。おなかが減ったので、横須賀らしいものを食べようと、ALFREDというお店に入りました。カウンターでアメリカ軍人らしい人がハンバーガーを食べていました。わたしも、ハンバーガーと海軍カレーのコンビをいただきました。

画像11

左上 横須賀どぶ板通り 右上 どぶ板通りの自販機 左中 アルフレッド右中 横須賀カレーとハンバーガーのセット 左下 どぶ板通りの案内板 右下 ハンバーガー屋とスカジャンのお店が並ぶ

国道16号は、横須賀中央の方にはいっていきますが、東京湾一周というマニアックな大会でそちらの方を走ったこともあるので、今回は、横須賀海岸通りの方を走ってみました。うみかぜ公園には、自転車のオフロードコースと、スケボーのコースがあって、賑わっていました。海釣り場所もあります。千葉から富津でも海岸を走っていたはずなのですが、ほぼすべて工業地帯で海にアクセスできませんでした。海にアクセスできる沿岸地域とそうでないところでは、やはり生活の質が大きく違うように思います。 

画像12

左上 うみかぜ公園のオフロードコース 右上 うみかぜ公園のスケートボードコース 左下 うみかぜ公園の釣り場 右下 猿島要塞、その向こうに君津と富津の工業地帯が見えます。

馬堀海岸で、国道16号に復帰します。ここの直線海岸は「まぼちょく」と呼ばれていて、ランナーのメッカだそうです。この日も良い天気でたくさんのランナーが走っていました。片道1.5km、往復3kmの平坦な道です。国道から海側に歩行者専用道があります。

画像13

左上 大津漁港 右上 馬堀海岸、あと4km 左下 「まぼちょく」と言われているようです。 右下 道がアメリカンな感じ

「まぼちょく」の終わりあたりにスーパー銭湯がありました。ここに戻って汗を流すことにして、走水に向かいます。途中に走水水源地があります。ヴェルニーさんは、ここから7kmの上水管を横須賀造船所まで引いたということです。ヴェルニーの水が無料で飲めます。自動車で汲みに来ている人がいました。

画像14

左上 走水水源地のレンガ造りの貯水池、国の登録文化財 右上 ヴェルニーの水、ここから横須賀造船所まで7kmの導水管を引いた 左下 案内板 右下 走水の水源群の説明板

このあたりから一つ丘を越えます。丘の中腹の破崎緑地の展望台からきれいに富士山が見えました。今回は、初日を除き、すべて富士山を望むことができました。心がけがよいせいですね(トップ画像もここからです)。走水の集落は、日本書紀に遡る歴史があります。昔の東海道は、ここから房総に船で渡っていたということです。だから、市原のあたりが「上総」で、千葉の北西部が「下総」なのですね。

画像15

左上 破崎緑地の展望所からみた富士山 右上 走水まであと1kmの距離ポスト 左下 最後の国道16号おむすび 右下 走水漁港

国道16号の終点が、走水交差点です。ここも「終点」という表示はありません。ただ、国道と県道の管理区分を示す標識がありました。

画像16

上 最後の走水交差点 左下 走ってきた方向を振り返る 右下 記念写真

馬堀海岸のスーパー温泉まで戻ります。まず、走水神社で初詣。地域のみなさんがあつまって賑わっていました。この神社の由緒によれば、日本書紀に、日本武尊が、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着し、ここから、船で、房総半島にわたったと書かれているそうです。その際に暴風に遭い、同行していた弟橘媛命が海に入って、暴風を収めたということで、弟橘媛命の碑が建てられています。スーパー温泉に書かれていた馬堀の由来には、房総半島で暴れていた馬が、この海岸に流れ着いて、癒やされて、良い馬になった(大意)ということが書かれていました。やはり、この地域と房総半島は密接につながっていたのですね。

http://www12.plala.or.jp/hasirimizujinjya/yuisyo/index.html

画像17

左上 走水神社 右上 初詣客がたくさん 左中 ロシアの機械水雷が奉納されています 右中 走水神社の中の水神社 左下 弟橘媛命「舵の碑」 右下 馬堀の由来

これで、国道16号線の旅はおわりです。国道16号の中でも、千葉から埼玉に至る新しく斜めに引いた区間、埼玉や横浜の歩行者からも切り離されたバイパス区間、千葉から袖ケ浦の海を感じることができない湾岸道路区間などは、歴史や人の生活から、あるいは自然から切り離された区間でした。一方、八王子から横浜に至る八王子街道や、横浜から走水に至る浦賀道に上書きされている区間では、歴史の匂いが残り、生活が息づき、自然も感じることができました。道路としての機能は、前者の区間の方が高いと思いますが、マラソンランナーとして楽しめる区間は、後者の区間ですね。途中、横田空軍基地、横須賀海軍基地によるアメリカナイズされた区間が突然現れます。特別の文化が米軍施設からにじみ出している区間でした。

画像18

馬堀海岸駅に向かう途中、富士山がみえました。むかしは、関東一円から富士山が当たり前のように見えていたのでしょうね。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?