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自己満足とは?

「それはただの“ジコマン”じゃん」というような言い回しを耳にする。
私は捻くれた性格をしているので、これを聞くたびに「逆にジコマンではない行いを教えてくれ」と思ってしまう。
この鬱積した気持ちを晴らすため、今回は「ジコマン」及び「自己満足」について考えてみた。

3つの自己満足

自己満足のように明確な定義がないまま言葉が独り歩きしているような言葉はよくある(多分)。
こういう言葉については、まずどういう使われ方をしているのか考え、分類することが有効だ。
自己満足については、3つに分類することができる(3つ目に関しては、こういう意味も考えられるという提案に近い)。

  1. よく言われる“ジコマン”

  2. 純粋で善的な行為全般に対しても使われる、広義の“ジコマン“

  3. 自己に満足するという意味の、自己肯定と似た自己満足

また、自己満足とは読んで字のごとく「自分で自分に満足すること」であるから、その正確な判断は自分自身にある。

1つ目のジコマン

よく言われる“ジコマン”。
まず、それがどんな時に言われるのかを考えると、2つの要素があることに気づく。
表面上の問題精神面での問題である。

① 表面上の問題
誰かのためにやっているように見えて、実質的にはその人の役に立っていない、または解決していないように見えるとき。

② 精神面での問題
「相手の役に立つこと」よりも「自分の心を満たすこと」を優先しているとき。つまり、目的の差である。

この2つは、どちらも似たようなものだが、本質は②であり、それを見分けるための①であると考えられる。

また、②に該当するがジコマンと言われない場合もある。それは、結果的に人の役に立っているものである。その理由は、本人がそうだと言わない限り見分ける術がないこともそうだが、この分野においては結果主義であるからだ。そのため、②に該当しないがジコマンと言われる場合もある。

その行いがジコマンと判断されるかどうかは表面上の問題であり、一つ一つの行いについて各々がどう思うのかというだけの話である。

②においては主観的な問題である。
「自分の心を満たすこと」と「相手の役に立つこと」の目的の重み付けによってジコマンかどうかが決まる。目立ちたいと思ってアイドルを目指すのか、笑顔にしたいと思ってアイドルを目指すのかといった具合だ。
実際にはこのような「0か100か」ではなく「どっちも」や「50-50」ということはよくある。その場合、ジコマンとは言い難いだろう。自分側に圧倒的に偏っているとき、②においてのジコマンが成立する。

2つ目のジコマン

純粋で善的な行為全般に対しても使われる、広義の“ジコマン“。
このジコマンが1つ目のジコマンと明らかに違う点は、人の役に立っていても言われる点である。例えば「老人に席を譲るのはジコマンだ」「子育てはジコマンだ」「人助けはジコマンだ」という使われ方をする。

1つ目のジコマンと違い「自分のため」というよりは「自分の欲求を満たすため」という意味合いが強いだろう。

まず、ジコマンと言われる対象は何かと言えば「行動」である。
この場合の「ジコマンな行動」と「ジコマンでない行動」の違いは何だろうかと考え、本質的には次のようになると結論付けた。それは、

意志のある行動か否か

である。
意志というのは「したい」ということである。
意志のある行動とはつまり、そうしようと思ってとる行動である。
意志のない行動とは、反射的に出てしまった行動など自分の考えとは関係なく出てしまう行動である。
よりわかりやすく言えば、意志によって制御可能な行動はジコマンであり、制御不可能な行動はジコマンではないということである。

本当にそうか?ということで、判断が微妙な例を見てみよう。

  1. やりたくない場合
    職場で押し付けられた雑務や、同調圧力による不本意な参加はどうだろうか?
    「こんなものまでジコマンと言われたらたまったもんじゃない」と思うかもしれないが、やはりこれもジコマンということになる。体が勝手に動いたわけではなく、一応、断る選択肢等もある中で自分の意志で選んでやっていると言えるからだ。妥協の「したい」である。

  2. 予想と違う結果になった場合
    小さな子が道に迷っていたため話しかけた結果、通報されたとする。
    これはジコマンだろうか?
    とった行動はジコマンだが、結果に関してはジコマンではないだろう。

ここまで具体的に見てみても、やはり意志ある行動はすべてジコマンであると言えるのではないだろうか。

加えて2から分かるのは、どうやらジコマンと呼ばれるものは「『その行動をとった時点において』という注釈が付きそうだ」ということである。
結果はどうであれ、如何なる意志ある行動も「その時点においては自分のためにやった」「自分がしたいと思ってやった」ということである。

すべての意志ある行動は自己満足に過ぎないと言えば、どこか虚しいような気もしてくる。
しかし、これは元を正せば自分の意志ある行動は自分で決めているという当たり前の構造を指摘しているだけである。
また、自己満足だからといって他人のために行動していないわけでもない。

3つ目の自己満足

この意味での自己満足を巷で耳にしたことはないが、文字通り素直に読み取った場合の自己満足である。自己肯定と似たように考えればよく、よりわかりやすく書けば「自己―満足」つまり、自分で自分に満足しているという意味であり、積極的な意味合いが強い。

どういったものがそれに当たるのかは主観である。
「あの時とった行動には自己満足している」というような使い方だ。
これはジコマンとは異なり過去の出来事に対して結果や状況を含めて評価する場合が多いだろう。勿論、その行動単体での評価も可能である。

感想・まとめ

ここまで自己満足について考えてきたことで、私の鬱積した気持ちについても理解することができた。日常的に使われる自己満足には2種類あり、これらを一緒くたに扱っていたために、1つ目の意味で使われたものに対して2つ目の意味を持ちだして不満を抱いていた。また、2つ目の言い分は批判になっていないという不満もあっただろう。
今回、自己満足について最初は意味を分けずに一括りにして書き出したが、手が進まなくなり、もしかして分けられるのでは?と思い直してからスラスラ書くことができた。そういう面でも新しい収穫があって良かったと思う。


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