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「集う」リレーコラム② - サチコ


マジックアワー。

本来は、「日が沈んだあと、辺りが薄い光に照らされて金色に輝く、ほんのわずかな美しい時間帯」を指す写真・映画用語。でも人生にも端々で、そういった時間が現れると思っている。

24歳の夏、わたしは毎週末を下北沢の喫茶店で過ごしていた。もともと下北沢が大好きで近くに住んでいたのだけど、あの夏は特別に入り浸っていた。うまく言えないけれど、あの時期、わたしたちはそれぞれ下北沢に支えられていた。それは街であり、概念的でもあり、そこにいる仲間や時間のことをさしていたようにも思う。

その喫茶店は、レモネードを注文しても「明日も休みでしょ、大丈夫よ、ビールにしなさい」とビールが出てくるような店だった。客同士は必然的に友達になり、閉店後にみんなで出前をとって食べた。そしてお腹がいっぱいなのに次々におやつが出てきて、帰るときにも持たせてくれる。そんな、実家みたいな場所だった。

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久しぶりにその頃の空気を色濃く思い出すことになったのは、義理の妹のお芝居を観ているときだった。

モノクロな姉   張ち切れパンダ

とある喫茶店で繰り広げられるドラマ。一人一人の日常が、人生が、交差していくお芝居だった。家族、血縁、恋愛、妊娠、友情、嫉妬、愛情....そこで起こる全てのことを、喫茶店は見ていた。

お芝居のラストシーンでは、お店でのこれまでの日々が、まるで走馬灯のように流れ込む演出だった。次々に、ダイジェスト映像のように飛び込んでくる。それは、わたしたちがあの小さな喫茶店で過ごした日々が次々に映し出されるようで「ああ、知ってる」と思った。涙が止まらなかった。

ただなんとなく過ごしていたつもりでも、あの時間が自分の中につよく残っていることを実感した。その喫茶店は閉店してもう3年になる。

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今思えば、「集まろう」と思わなくても自然と足が向いてしまったあの場所で、約束をしなくても必ず誰かに会えたこと、毎週末のように注文が通らなくて乾杯したこと、とてもしあわせだったなあと思う。たぶん何を飲んでいても一緒で、ただただ受け止めてくれる場所があったことが、嬉しかったんだろうな。

「人と人がつながる場所」が大好きで、守りたいと思ったし、いつか、自分もそんな場所を作りたいと思うようになった。そんなことを考え続けているうちに人がいればそこは「場所」になることもわかってきた。街でも、緑道でも、喫茶店でも、オンラインでも。

「場所みたいな人になりたい」と思うようになったのも、喫茶店のお母さんがきっかけかもしれない。ただそこに立っていてくれただけで、どんなに安心したか。物理的な場所を作るより、自分が場所みたいな人になれたらいい。これは、今も思っていること。


誰もが、それぞれ何かを持って、喫茶店に集まっていたのだと思う。わたしは他の誰かの想いはわからないけど、確実に交差している何かがあった。何をしてたかって、なんにもしていない。だけどなんでこんなに特別なんだろう?

「なんかわからないけれど一緒に過ごしたなあ」「あの頃、やけに一緒にいたよね」。そんな時間があっても、いいと思う。「集う」ことで場所ができる。(目に見えなくてもね)「場所」は特別な時間をうむ。人生にはそんなマジックアワーが、きっと必要なんだ。

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