モビー (掌編小説)

私は『モビー』と呼ばれている。しかし、私の名前は『モビー』ではない。

それが、友人達の間で付けられる、たわいのないあだ名だったらよかったのだが、残念ながら私には友人らしい友人は一人もいない。

では、誰が私の事を『モビー』と呼ぶのか?
それは無数の知人で達である。

私は、友達はいないが、人の誘いは断ることはない。飲み会もそうだし、ボランティア活動も、宗教の勧誘も、セールス活動も、消防団も全て受け入れる。決して断る事はない。

いわば、私は無反対主義者なのである。何故、私が無反対主義者なのかといえば、病気に近いものであるはずだ、生まれつきにして断ると言う行動を持ち合わせていないのだ。そんなようだから、人のやりたくない仕事を低賃金で押し付けられて、悪どい不動産屋に勧められたコストパフォーマンスが素晴らしく悪い物件住み、休日には、価値のないセミナーやボランティア活動に参加するような生活を送っている。

では、何故、全ての物事において寛容な私に友人がいないかと言えば、まず第一に、金が無いのである。誰の誘いからも『お金がない事』を必ず告げるのだ。これは、決して断っているわけではなく、生活に最低限必要なお金をギリギリ以外は全くお金がないのである。セールスも断りきれなかったので、狭いアパートにはバーベキューコンロが26個とカーワックスが348箱とモンキーレンチが1399本あり、それらのローンの支払いで経済状況が逼迫しているである。金で友人は買えないが、極度に金がないち友人すらできないのである。

そして、第二に、あまり約束を守らない事だ。断らないのに約束を守らないとは矛盾してるではないかと言われそうだが、何か約束があっても他の誘いがあると約束が更新されてしまうためどうしようも仕方ないのだ。
例えば、『ベジタリアン的な宗教』に勧誘されたて即入信したのだが、その1時間後『黒服で子ヤギを殺して食べる的な教』に入信してしまった。それを知った『ベジタリアン的な宗教の人』は激怒したが、私としては『黒服で子ヤギを殺して食べる的な教』の勧誘も断われなかったのである。私は涙ながらに『産まれながらに全てを断われないのです』と言ったが、『ベジタリアン的な宗教の人』は私の悩みなどは気にせず焼肉を食べた事を問い詰めた。もちろん『黒服で子ヤギを殺して食べる的な教』もすぐに破門された。

こう言った具合に、私が誰かの頼みを聞いて感謝される以上に、私が何かを断われなかった事の損失の方が遥かに大きいのである。私としては、私は産まれながらに断われない旨を説明するのだが、誰も彼もサインや入信するまでは親身に話を聞いてくれるくせに、いざ契約すると、私の悩みなど関係なくのべつ間も無く自分たちの主張を捲したてるのである。

すなわち、人々が私に求めてくるものは『服従』と『喜捨』である。決して私が先天的に与えられた『肯定』そのものは求めていないのだ。つまり、私は『服従』と『喜捨』ができない味のない食べ放題のガムみたいな人間だ。

そう、もちろん。犯罪の片棒を担ぎそうになった事も山ほどあるが、しかし、それに関しては妙な幸徳が働くのか、大体、未遂に終わる。

そんな具合なので、私の価値は『とりあえず人が必要な時に来てくれるかもしれない』に限定される事となった。すなわち、モブ人間の『モビー』と呼ばれるようになったのだ。

私はいつしか、何かを『反対する人間』達に誘われるようになった。私は、断われないから否応なく反対する事をする事になった。

自分でも、反対を断われない事によって反対を許容している自分がわからなくなった。しかし、反対をしてみる人間にしては、反対こそが正義である。すなわち、私は、反対できない事によって反対をする行為が丁度マイナスの掛け算がプラスになる様に、ある種のバランスを得たと言える。

いつしか、私は仕事も辞めさせられ、延々と何かを反対する事になった。だが、それは苦ではなかった。不思議な事に反対する人たちには、すべてはを許容する私の居場所があったのだ。

いつしか、人々は私を尊敬するようになった。英雄と呼ばれるようになった。もう誰も私をモビーと呼ばなくなった。私は心地よかった。ここに入れて心の底から幸せだと思った。

私は、明日、英雄になる。


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昨夜〜、〇〇番地で起きた自爆テロの犯人は、、、---

「えっ、ちょっと待って、この犯人!モビーじゃん!なんで!くっそ!まだカーワックスの代金もらってないのに!」

#掌編小説


うーん。ドッスン