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前回まで開業に関することを思いつく限り一通りお話しして、お店としてnoteをやろうと思った当初の目的は一応達成しました。
もっとこんなことを踏みこんで聞きたい!というご意見があれば、答えられるかは分かりませんができる限りお伝えしたいと思います。

次、何を話そうかなあ〜なんてぼんやり考えていたのですが、開業編でちょこちょこ登場した自分の「負けず嫌い」な性質について掘り下げてみたいと思います。

自分の人生で思い返せる限り1番古い負けず嫌いの記憶は、小学校に入学する時母が近所の友達のお母さんに「この子は早生まれだから同級生の他の子と比べて(勉強や運動などが)出来ないかも知れない」と話していたのを聞いた時です。私は3月の後半生まれで確かに4月生まれの子と比べたら一年近く遅く生まれたことになりますが、その時「好きで遅く生まれてきた訳じゃないのに、どうしてそんなことで勝手に優劣をつけられなければいけないんだ。絶対負けたくない。」と思いました。小さい頃は太っていたのもあり運動は全然ダメでしたが、学習面では同級生に負けたくないという動機でそこそこ勉強していました。算数が苦手で、算盤の授業で全員立った状態から答えが分かった人から座っていくという状況でラスト2人くらいにまで残ってしまい、出来ない悔しさと「算盤じゃなくて筆算だったらこんなの一瞬でわかるのに!非合理的すぎる!」という憤りで休み時間に泣いたことも記憶にあります。負けず嫌いな上かなり根に持つタイプなのでこういった一つ一つのくだらないことが忘れられません。

しかし一定の努力があっても、「1番になる」というのはなかなか難しいものです。私は子供の頃から絵を描くことが好きでしたが、クラス替えの時同級生に「今まではpopiちゃんがクラスで1番絵が上手だったけど、今度のクラスでは〇〇ちゃんと同じクラスになっちゃったから2番になっちゃったね。」と言われたことがあります。その時は悔しい気持ちもありましたが、「確かにそうだな。」と思ったのを覚えています。

それとは別にピアノも習っていましたが、なぜか学年に1人はとんでもなくピアノが上手な子がいるものです。全校集会でピティナ・ピアノコンペティションとかいうすごい大会で同級生が賞を取ったと何回も表彰される度、昼休み普通にドッチボールとかしてるのにどうしてそんなことになるんだとか、見えないところですっごい努力してるんだろうなとか、様々な感情がのちに諦観になり「自分は何をやっても1番にはなれないんだ。」と思うようになりました。

そんな心持ちの人間が一等賞を取れるわけがありませんが、もしクラスや学校で一番絵が上手だったとして、美大に行ったら周り全員絵が上手くて打ちのめされるなんてことはよく聞く話ですし、早いうちに得られた感情で良かったのかも知れません。

アスリートの方や何かで賞を取るような方は、こんなふうに諦めず我々一般人には到底想像も出来ないくらいストイックにひたすら努力をし続けていることだろうと思います。それでも上手くいかないこともあり、オリンピックなどを見ているとどうしても、死ぬほど努力したのにメダルを取れなかった人に感情移入してしまうのが苦しすぎて見なくなりました。

三つ子の魂百までもというようにそれは大人になっても続き、社会人になってから自分が思うように昇級出来なかった時などは「アイツより私の方が絶対努力してるのに!!」と悔し泣きしながら毎日遅くまで残業していました。

そんなある時上司から「チーフやマネージャーになりたいとか、そういうことを目標にするんじゃなくて『もっと良い売り場を作りたい』とか『もっと良い接客をしたい』とかそういうことを目標にした方がいい。役職を目指してどんなに努力してもそれに見合った結果がでるとは限らないけど、具体的な能力の向上を目指していけば絶対に力は付くし、そうしていくうちに役職も結果としてついてきたりするもの」と言われてなるほど〜と思い、それから自分の属するコミュニティの中での相対的な立ち位置よりも自分のスキルが向上するように頑張ろうと思えるようになりました。

似たようなことでイチロー選手が「努力を努力と思っているうちはまだ全然ダメで、その努力が当たり前になった時、結果として現れることもあれば現れないこともある。」という旨のことを仰っており、将棋の羽生名人も「結果が出るか分からなくても、努力を続けられることが才能」というようなことを言っていた気がします。

まあ何が言いたいかというと、負けず嫌いの人間がずっと上を見続けるのは結構苦しいんですね。先日しいたけ占いのしいたけ.さんの記事を読んでいたら、「社会の中で自分がどういう位置取りをしていくか、地図が描けると良い」という文章があり、目からウロコというか、自分の中でかなりしっくりくる内容でした。

有料記事なので詳しくはお伝えできませんが、気になった方は読んでみてください。

掻い摘んで話すと「占い師として、もっと当たる人すごい人は沢山いるけど、『ただただ応援してくれる田舎のおじいちゃん』みたいな、そんな存在の占い師はいないからそこを目指そうと思った」みたいな話です。

ここでようやく本業の話になりますが、自分で店をやろうと思った時、

①ゆる〜い着物屋さんがやりたい
②洋服屋さんの常識で、着物屋さんを作りたい
③着物屋さんだけど、着物屋さんになりたくない

と思いました。

まず①について、アンティーク着物屋さんで格好良いお店は沢山ありますが、古くて良い商品の純粋な内容だけで勝負するのは新参者の自分にとって険しい道になるだろうと思い、洋服の古着で言うところの「グッドレギュラー」を上手く組み合わせて尚且つカジュアルなテイストを雰囲気良く出せれば、そういうお店はまだあんまり無いかも?と思いました。

古着用語で「レギュラー」というのは、〜1970年代くらいまでの所謂「ヴィンテージ」よりもすこし新しく、比較的量産されており希少価値の少ないものを指します。(古着屋に入ったばかりの頃このレギュラーの意味が全く分からなくてどういうこと???と思っていました)今は90年代のものも価値が上がっているので何とも言えませんが、そういった比較的新しい古着の中でも質や雰囲気の良いものを「グッドレギュラー」と呼んだりします。

着物業界でいうと「リサイクル着物」というところでしょうが、私はこのリサイクルという呼び方がなんかダサく感じて嫌いなので使っていません。一般的な定義でいうと100年前のものがアンティーク、50年前のものがヴィンテージですが、着物業界だと戦前のものがアンティーク着物でそれ以降のものがリサイクル着物とか正直あんまり意味がわからない。

話が脱線してしまいましたが、バキバキのアンティークだけを扱うお店より少しカジュアルで入りやすく(※アンティーク着物も取り扱っていますが)、尚且つリサイクルショップとも呉服屋さんとも違うお洒落なお店という立ち位置を目指したい。それが私の指す「ゆるさ」であり、②の洋服屋の常識でやる着物屋さんにも繋がっていきます。

先日着物業界の大好きな先輩とお茶をしていた時に、③の「着物屋さんだけど、着物専門店だと思われたくないというか…」という話をしたら「着物を概念として色んなものと一緒に置いていてハードルをぐっと低くしているのがこの店の良いところだし、何やさんかどうかはお客さんが決めるってのはどう?」と言ってもらえてその言葉がとても嬉しく、なんて素敵なことだろうと思いました。

これがずっと負けず嫌いで中途半端に何の分野でも一番になれなかった私が辿りついた社会の中での位置どりであり、「役」なのかなと思っています。社会が変わると求められるものも変わっていくのでいつまでこの役でいるかは分かりませんが、しばらくは続けてみようと思っています。ちなみに私は今年厄年で、大厄といわれる厄年の総本山ようなものらしいのですが、先日知り合いに「役者さんとか自営業の人にとっては大きな『役』が来るともいえるから、必ずしも悪いものじゃないんだよ」と言われてなるほど〜!と思いました。去年大厄だった演劇をやっている友人が「厄祓いは行かなかったけど、厄除けのお守りを持ってたら何も悪いことはなかったよ!」と言っていたのでそれを採用して、小さなお守りを買って大きな役を待ち構えてみようと思っています。


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