不完全さこそ、愛すべき対象
仕事の世界にコンピュータが入り込んで、それまでと働くことの意味が全く変わってきたと言われます。
僕はほぼほぼコンピュータがある、インターネットがあるのが当たり前で働いてきたので、そんなものかなと思いますが、これは大きな変化だったようです。
それまでは、ほぼほぼアナログで情報を伝達し、保存し・・・逆に今では信じられないけど。
おそらく、コンピュータの登場で情報の処理にかかる労力はかなり減りました。情報を実際に取っておくのはデータとしてなので、現物がある訳ではありません。
人間がするのは主にデータ化。
データ化するための機械を作り、システムを作り、会社までも作り、すごいことをここ何十年やってきたんだと思います。
気が付けば、天文学的な容量のデジタルデータに溢れています。
このシステムを作り上げるまで、大切だったのは演算だったり、再現性のある論理だったり。
システマティックに動けば、正確で、無駄は無くなります。
無駄のない動き、無駄のない作業、そういったことが出来ないものかと、人類が考え出した技術の結晶が今のコンピュータ社会なのかも知れませんね。
恐らく、初めは良かったんです。
無駄がないって、スマート!
その分、他のことも出来るわ~!
みたいに。
しかし、それは本当は他のやるべきこと、やりたいことがある前提で欲しかった利便さだったのに、いつの間にかスマート化が目的みたいに、ゴールになったみたいになってしまいました。
スマート化したけど、その分の余白で何をしたらいいのか、わからない・・・?
今度はそんな悩みが押し寄せます。
これが若い人がやりたいことがわからない、という一つの理由のような気がします。
世の中がスマート化するのはいいですが、自分自身はまず、やりたいことや目標が定まらないと、スマート化する意味がありません。
ここ二、三十年はこのジレンマの期間でした。
仕事としてはスマート化に向けた仕事をせざるを得ません。
会社が提供する価値はここに大きな源泉があったから。
でも、個人は、わたし自身はスマート化したい訳では無いんです。
わたし自身の尊厳を置き去りに、社会が生きたい方向に引っ張られ、その事でジャッジもされてしまう。
正直、苦しいです・・・
今、こうして世の中が慌ただしいのは、そういった価値観にストップをかけたい、わたしたち一人一人の無意識の衝動です。
一度、社会と自分をしっかり切り離して考える必要があります。おそらく、もう限界です。
そうなったときに、世の中の価値観と一線を画し、個人として何を求めるのか、自分のどこを愛するのか?
そういった、問いが重要になりました。
そうなるの、わたしたちに、残るのは・・・
不完全さ
なのかも知れません。
自分の好きなところ・・・あの人の好きなところ・・・
それはその人の不完全さ。
だって、完全さは、もうコンピュータがやっちゃうんですもんね。
何かの関数に数値を入れたら、結果がこうなります見たいなことは、コンピュータの領域ですもんね。
だから、人間っぽさが、その逆になってくるのかも知れません。
いや、なります・・・なっています。(笑)
そんなことを考えることが最近多くなりました。
不完全さが、ドラマを動かし、予想不能な現実を生み出します。
それを、きっと誰もが求めているんですね・・・