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的を矢で抜く 百手神事 109/365

4月19日、須佐神社で行なわれた百手神事。

これは神職さんが的を矢で抜く神事でした。

この神事のじっと見ながら、この神事、作法、形は何を意味するのか考えていました。

まず手がかりは、カタカムナ的解釈。

カタカムナでいうところの的の「マ」は・・・

二つのものが、ひとつに見える場所。ひとつのものが、二つに見える世界。

いきなり、本質をズバッと突いてきました!

これは須佐神社に祀られているスサノオとアマテラスといっても良いでしょう。
須佐神社ではスサノオとアマテラスは向き合っています。
参道と参道がぶつかる場所は二つで一つのと呼んでいい場所だと思います。

須佐神社と天照社の参道がぶつかるところにはこのような図が記されている。

これもある意味、的であるのでしょう。

次は的の「ト」

トは統合のト。

統合とは、時空を超えた繋がりを知ることです。

互いの存在を承認しあいながら依存はせず、ただ共にある状態をさします。
ただある、ということ。

そして、統合とは、二つのものが一つになることではないのです。
本来、統合とは、そもそもが二つで一つであったことを知ることです。

わたしたちは主体と客体で一つ。
分離を起こしていないということです。

そう考えると的(マト)とは
分離していると思っていたものは実は重なっていて、一つだったという意味に取れると思います。
主体と客体が分離していると思うから、私と物質という対象が生まれ、そこに距離と時間が生まれます。

的をそのようなもの、塊と見ているのではないでしょうか?

これは二次元に潰れていますが、三次元に空想を広げると、重なる玉のように見えてきます。

この的を矢で抜くわけです。

次は矢です。「ヤ」は飽和するという意味です。

ちょうど弓矢を精一杯引っ張っている時って、もう力が逼迫していますね。

その「ヤ」は自分に成ろうとする「意志」の集合体。
「ヤ」は生命の種が皆、同じ方向を向き、志をひとつにした瞬間と言えます。
溢れ出す寸前の表面張力、潜象世界と現象世界の狭間で生まれる生命の営み、刹那の「ヤ」。

陰陽の堺目、二つの世界が向かい合い、拮抗しながらも、抱きあう世界。

的を矢で切るというこの神事はカタカムナ的に見ていくと、こういった解釈もできますね。

実に奥深い・・・

きっと昔の人はこういったことをきちんとわかっていて、こういった儀式を大事にしてきたのでしょう。

二つで一つであったわたしたちの世界。

陰と陽を統合したその刹那に生まれるわたしたちの意志。

それこそがわたしたちの目の前に広がる世界そのもの。

こんな風にして世界は作られている。

そんな世界観が太古の日本人にあったのでしょう。

ずっと昔から継承されている神事が今でもこうして生で見られるのも出雲ならでは。

やっぱり、生で見る神事の空気感は格別です。

是非、出雲でこの空気を感じていただきたいと思います。