見出し画像

新説!邪馬台国の真相8>>>>

新説!邪馬台国の真相8>>>>
「曹操の鏡」の意味するものは?

では、まず下の記事をご覧ください。朝日新聞2019年9月8日のものです。

スクリーンショット 2020-01-10 16.56.55


あの三国志の英雄・曹操の墓から出土した副葬品と、同型の最高級の鉄鏡(「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさく がんしゅ りゅうもん てっきょう)」)が九州・大分県の日田市の遺跡から見つかりました。写真では錆びてしまってたいした物ではないように見えますが、
「背面全面に金で竜文が象嵌されており、角や爪は銀で象嵌されている。また、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌められている。中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。(ウィキペティアより)」。
まさしく国宝級。そんな大そうなものが、なぜそこに?ーー専門家も首をひねっているものが、なんと戦前に見つかっていたんですね。

つい最近のニュースでは、曹操墓を発掘した中国の権威ある学者が、この鉄鏡を調べたところ、曹操墓の副葬品と同型のものであることを確認したそうで、「もしかしたら卑弥呼が魏からもらった100枚のうちの鏡なのでは?」といった報道もなされました。
私としては、卑弥呼がもらったのは「銅鏡」であるから、この「鉄鏡」とは違うものと思っていますが、とにもかくにも、これは曹操など一部の魏の有力者しか持てなかった、間違いなく非常 に貴重な一品でした。ではなぜ、そんなものがここにあるのでしょうか?

記録がない以上、専門家の分析を待つしかないのですが、ひとつの可能性として、こんな仮説は立てられます。
先ほど「赤壁の戦い」について触れましたが、敗走した曹操軍は山に逃げ込んだ者、あるいは船を走らせ長江河口に逃げ込み、大海に出て山東半島へ帰ろうとした者もいたようです。しかし対馬海流に流され、ほとんどの船が漂流・難破した中に、もしかしたら生き長らえて、九州の地へたどり着いた曹操の側近もいたのではないか。だとしたら漂着した船に、この鉄鏡も積んでいた可能性はあるかもしれません。

スクリーンショット 2020-01-1014.28.32


少なくとも「曹操の鉄鏡」が存在する以上、そこに位の高い魏人もいた、とみなしていいでしょう。
先ほど私は、倭人は国際儀礼や言葉などどう学習したのだろう?と問いました。もしこの推理が正しいなら、彼ら魏の漂着民が言葉と国際儀礼を倭人に教え、仲介役として、司馬懿と卑弥呼をつなげることもできた、と考えます。彼らにとっての239年は、待ちわびて30年ぶりに故郷へ帰還した年でもあったわけです。

そして、肝心の場所。「曹操の鉄鏡」は、大分県日田市ダンワラ遺跡から見つかりました。
ダンワラ遺跡自体は、小さくて平凡な遺跡ですが、日田市が立地する「日田盆地」は、北九州地域では最大級の盆地です。弥生時代以前は巨大な池だったところ水が干上がり、邪馬台国時代には稲作に適した沖積平野となりました。そこに広大な農地が広がったわけで、ということは、比較的大きな国があっておかしくない。ひょっとして、吉野ヶ里遺跡以上の大規模集落が近々見つかるかもしれません。

このように、魏との関連を匂わせる物証も出てきたことで、邪馬台国連合は北九州一帯であることが、確実になったと私は思っています。
歴史的な流れでお話しすれば、「邪馬台国は北九州内のどこかにあった」とし、ここで結論としてもかまわないのですが、もう少ししぼってどこなのか特定してほしいと、言うかたもいらっしゃるかもしれません(笑)。

では、先ほどの「倭人伝」のバイアスを解いて、だいたいの位置を検証してみましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?