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新説!邪馬台国の真相7>>>>

新説!邪馬台国の真相7>>>>
卑弥呼が倭の女王になったわけ

いきなりですが、中国側から見た倭国地図を描いてみたいと思います。
あえて方角や距離を「倭人伝」のままに再現すると、こうなります。

●倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る
●女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。
●侏儒国がその(女王国の)南にある。女王国を去ること四千余里。
●また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。
●倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。

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お~すごい日本列島になってますね。
ただ、こうして地図にして改めて感じるのは、倭国はたしかに呉の背後にあり、伊都国を含めた北九州地域が最も呉に近いということ。
おそらく魏にとって最も重要だったのは、そのとき倭国で一番の権力者は誰か?ではなく、誰が呉にプレッシャーをかけられるか、だったのではないか。有事の際、もっとも早く参戦(海戦)できる有力国は誰か、を選定して属国にすることだったのではないかと、私は思います。
言い換えると、女王・卑弥呼が、倭国一の権威者だから金印を授かったのではなく、外交上、魏にとって最も戦力的に優位な位置にいたから、魏は倭国王の称号を与え、倭国の中で最も権威をもたせようと仕組んだのではないか、と。
私はこれこそが、中小国連合の女王が「倭国王」となった最大の理由だと思っています。

もしこの推論が正しければ、「当時の倭国で最も権力を有したところが邪馬台国だ」とか「最も農耕面積が広がり人口が集中している地域が邪馬台国だ」という論拠は崩れてしまいます。

魏の立場から見ると、これは憶測でしかありませんが、どの国を「倭国王」にするか、迷ったかもしれません。北九州政権(邪馬台国連合)だけでなく、出雲国は鉄を多く有し、朝鮮半島・日本海北岸などと広く交易していましたし、丹後・越の製鉄量も相当なものでした。それでも北九州を選んだのは、地理的な優位性と、豊富に保持していた船・鉄武器に魅力を感じたからでしょう。
特に魏は、海戦を弱点としていました。30年前の「赤壁の戦い」では曹操の水軍が長江沿いで劉備・孫権連合軍にこっぴどくやられ、およそ30万の兵を失ったとも言われています。そのトラウマから、いざという時は、海洋国である邪馬台国連合の水軍を後方に待機させ、支援させようという視野も持っていたと推定します。そういう意味では、纏向のヤマト政権は海洋国ではないので、やはり選択肢から除外されたでしょうし、ましてや邪馬台国が自身でその地理的な優位性を放棄して「東遷」するということも、考えられません。


ただひとつ、重要な疑問が残ります。
司馬懿が、公孫氏を滅ぼした238年の直後、すかさず卑弥呼へ朝貢を呼びかけました。(逆に、倭国から朝貢を申し出たと考えてもかまいません)
なぜ、それができたのでしょう?
まったく国交がない国に、いきなり交易を呼びかけたりするでしょうか?
(あるいはいきなり辺境の国が、魏に訪れて金印をもらったりするでしょうか?)
文字や言葉は?国際儀礼も大事でしょう。フタをあけたら超野蛮な民族で、話も何もできない。さっきお話しした遣隋使のことではないけど、倭の使者が無礼きわまりなかったら、魏は怒って追い返すこともあったはず。
それらはどうしてクリアできたのでしょう?
邪馬台国の使者は、事前に言葉や儀礼を理解し、練習していたのでしょうか?
だとすれば、どうやって…?

ということは、こんな想像ができます。
どうも魏(司馬懿)と卑弥呼は、朝貢する239年以前から知っていた、のではないか。と。
それを仲介する高官がいたのかもしれない。
となると、239年以前の魏と、倭国との関連を示す物証(または人物)が出てくれば、邪馬台国はそこに近い場所にある、と言えるのではないでしょうか?
では次に、私が、これこそが魏と北九州政権を結びつける決定的な物証ではないか、とにらんでいるものを紹介しましょう。


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