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新説!邪馬台国の真相13>>>>

新説!邪馬台国の真相13>>>>
卑弥呼の眠る森

で、この「二礼四拍手」の儀礼を持つ神社は、日本広しと言えど、出雲大社と、あともう2社しかありません。
その一つはどこかというと、そう、大分県宇佐市にある「宇佐神宮」
ここにも謎は多く、そもそもその御祭神の主神が、だれだかよくわかりません。
3柱いて、第1柱は左わきに応神天皇(第15代)、右わきに神功皇后(架空の人物説も)、そして第2柱ながら中央に配し、応神天皇よりも神功皇后よりもドドんと主格に祀られてるのが、「比売(ひめ)大神」。まさに比売大神を祀るために築かれた神社と言っていいでしょう。
ところが「比売大神」って、誰なのか?
神社の正式な記録にもないし、日本神話にも、歴史書にも出て来ません。

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しかも奇妙なことに、8世紀、称徳天皇の時代に、僧侶の身でありながら、次期天皇の座をねらった男(道鏡)がいて、このままだとこの男が天皇になってしまう瀬戸際、それを阻止しようと、大和朝廷の使者(和気清麻呂)がなんとこの宇佐神宮へわざわざ馬を走らせ、比売大神のご神託を 伺ってきているのです。天皇の座が危うい時、
「この男を天皇にしてよいのでしょうか?」
などと、ご神託など聞きに行くほどの神とは、どんなものでしょうか。これは、単なる無名の神ではありません。
 
宇佐神宮のご由緒には、「御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になった」とあり、創建は725年。
ただ比売大神に関しては、
「八幡さま(応神)が現れる以前の古い神、地主神として祀られていた」とだけ記してありました。571年よりも古い女神「地主神」が、なんと、左右に応神天皇と神功皇后を従えて祀られているというわけです。

そしてこの地主神・比売大神も、二礼四拍手で祀られています
考えてみれば、参拝者は毎年、数十万人~数百万人やってくるわけで、それが、千年以上も続いています。「四=死」の儀礼は、とてつもなく大きな呪文となるわけです。きっと、宇佐神宮・比売大神への儀礼は、出雲大社のオオクニヌシと同じく、黄泉の国から蘇らぬように念を封じ込めるものだったに、ちがいない。つまりこの人物は、かつてヤマト政権に敗れた、もしくは殺された国の支配者だった、と言えるんじゃないかと推定できます。
で、その敗れた国こそ、邪馬台国連合。
比売大神とは、卑弥呼をはじめとする邪馬台国連合の女王たちだったのではないか。
そう考えた時、謎は解けてきます。

かつて西日本の勢力を分け合っていた、強力な政権「出雲王国」と「邪馬台国連合」。
このふたつの強国を、歴史の中でヤマト政権は、併合していきました。そのときヤマト政権は、敗者に対し、あがめ、祀り、神としての社を築く。しかし、「化けて祟らないように」と、その神を封印する呪文をかけておく。そうすることで、ヤマトの王は、安心して国づくりができたのではないでしょうか。

この宇佐怨霊説は作家・井沢元彦先生、出雲に関しては歴史研究家で哲学者の故梅原猛先生も熱心に唱えていたものですが、この点私はまったく同感です。

 ちなみに宇佐神宮「比売大神」の御神体はなんだかおわかりでしょうか?
私も知らず、数年前に宮司さんのご親戚から聞いて初めて知ったのですが、ちょっとびっくりしました。中津市に元宇佐神宮といえる「薦(こも)神社」があり、その境内の三角池に生えている薦で編んだ「枕」が、比売大神の御神体なのだそうです。
枕。……そう、その意味が何か想像がつきますよね?
「どうぞやすらかにお眠りください。四拍手とともに…」
これがヤマト政権から比売大神へ向けたメッセージ、なのでしょう。


では最後に、卑弥呼の墓はどこにあるのでしょうか?
おぼろげながらでも指し示してみましょう。
現段階で言われている諸説のうち、もっとも可能性が高いと思われるのは、2つ。ひとつは宇佐神宮本殿の真下、もうひとつは福岡県糸島市(伊都国)にある平原遺跡です。

卑弥呼の墓に関し「倭人伝」では、こう記しています。
「卑弥呼以って死す。大いなる冢(ちょう)を作る。径百余歩。」

「百余歩」とはどのくらいの長さなんでしょう?
当時中国では、1里=300歩としていました。「倭人伝」は「短里」を採用していますのでここでも短里を基本としてみましょう。すると一歩の長さは30センチ(90m÷300)で、「百余歩=30メートル余り」ということがわかります。
また「径」という文字を使っていることからして、直径の「径」、すなわち卑弥呼の墓は前方後円墳ではなく、「円墳」(または方墳)であろうと推察できます。
一方、中国の人たちは平地から立ち上げて山のようにつくる墳墓を「墳」、盛り土などによる墓を「冢」と称したようです。したがって卑弥呼の墓は、
「直径30メートル余りの円形に盛った土」だったと解釈できます。
もしこれが、通説でいう「箸墓古墳=卑弥呼の墓」だったとしたら、倭人伝は「冢」ではなく、「墳」の文字を使うでしょう。  

(写真は諸葛亮の墳墓:諸葛亮は遺言で「山に因(よ)りて墳を為し、冢は棺を容(い)るるに足る」つまり、その辺の山をのように見立て、適当に土を盛ってを作り、その中にお棺を入れてくれればいい、と言ったとされています)

武侯墓ぶこうぼ2

作家・故高木彬光先生は、著書「邪馬台国の秘密」の中で、「宇佐八幡の鎮座する小椋山(または亀山)は邪馬台国のヒミコの古墳ではないか」と示唆しておられます。

ここ亀山では、明治・大正・昭和にそれぞれ一度ずつ、修理保全工事が行われました。神域のため、ここで何を見たか工事関係者すべて外部に話してはならない、そういう決まりでしたが、高木さんのご功労により、ついに昭和の現場監督の方が口を開いてくれたそうです。 神殿の横の土中2メートル下には、角閃石を見事に削った長持ち型の石棺が埋まっているという。そして、石棺のふたの横から、わずかに見えた直線的に彩られた真っ赤な朱色が、たいへん印象的だった、と。

なるほど、ここが古墳だったことは確実でしょう。地元の人々からも、宇佐神宮の亀山は“神山”がなまったものであり、ここが古墳であるという認識をお持ちでした。
亀山は南北に120m、東西に160mほどの小さな山ですが、この山頂付近には人工的に手を加えてあり、ここが墓だとすれば、諸葛亮の墓と同様に自然の山を墳に見立て「冢」を作った、と言えるでしょう。
しかし残念ながら、ここを発掘することは難しく、被葬者と副葬品が確認されていないのが弱点です。

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もう一ヶ所の、福岡県糸島市の平原遺跡1号墳は、その逆で、副葬品は質・量とも他を圧倒しています。
被葬者が女性であることは確定的で、副葬品の直径46.5センチに達する大銅鏡は五面も出土しています。これは、天皇家三種の神器である「八咫鏡」と同型のもの、とも言われてる貴重な一品。国宝にも指定されました。「鏡」を使った祭祀は倭国特有であるので、となれば卑弥呼の「鬼道」祭祀にも通じ、平原遺跡が、特殊な祭祀墳墓であることを物語っています。

 (下写真は平原遺跡1号墳)
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この遺跡は、はじめ「卑弥呼時代より古い2世紀後半の伊都国の王墓」とされていました。ところが、出土された管玉(ネックレス)や耳璫(ピアス)を、改めて調べた結果、3世紀前半〜4世紀の新しいものも含まれていることがわかったそうです。
もし卑弥呼の時代だとすれば、伊都国には「官」がいても、「王」はおらず(王は卑弥呼だから)、となると平原王墓は「卑弥呼の墓」だったのではないか、と一躍、有力候補に躍り出たことになります。

問題は、糸島(伊都国)は宇佐とは離れていることですが、これは考えてみると、卑弥呼は「邪馬台国の女王」から共立されて後、半世紀も「倭国の女王」の立場にいました。倭国内で、後ろ盾になってくれる魏に近く、敵の狗奴国からは離れたここ糸島は、最も安全な場所であり、ここに墳墓を作るのは、ごく自然なことだったかもしれません。
ただし墳墓のサイズは、東西約14メートル、南北約10.5メートル、「径」でいうと17.5メートルの長方形の方形周溝墓。30余メートルという「倭人伝」の記述とは合致せず、さらなる分析が必要でしょう。

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以上、「倭人伝」から導き出した邪馬台国宇佐説と、「宇佐神宮」に残る奇妙な参拝方法。このふたつを有機的にむすびつけることで、おぼろげながら3世紀の偉大な女王の影が見えてきました。
邪馬台国は大国である、という固定概念。卑弥呼の墓は巨大前方後円墳である、という先入観。これらに惑わされず「倭人伝」書き手側の視点に立って、邪馬台国を追ってみると、少なくとも私には論理に破綻なく、スムースに古代の原風景が広がってきました。
でも、これはまだとっかかりにすぎません。
この邪馬台国がなぜ忽然と、147年後には消えていたのか?
それに代わって日本という国の産声をあげたのが、なぜヤマト政権だったのか?
狗奴国・投馬国・出雲・吉備との関係は?
本当の謎の解明はこれからです。
それらはまたいずれ、
最新の資料や情報などを用意して、お話しすることにしましょう。

                                                                                                                      了
 



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