見出し画像

新説!邪馬台国の真相11>>>>

新説!邪馬台国の真相11>>>>
邪馬台国を特定する

さて前章では、「倭人伝」の誇張ぶりを炙り出しました。結果、「不彌国」~「邪馬台国」間の距離表記はすべて却下すべきでしょう。しかし、方角に関しては勘違いはあるもののウソを書く必要はなかったと考えられ、したがって「不彌国から南へ至る」という情報は、ある程度信じていいと思います。
ちなみに通説では、「不彌国」→「投馬国」→「邪馬台国」と直線上に解釈してますが、私はそうは思いません。「倭人伝」の書き方では「不彌国」から先はまるで箇条書き。
「南、投馬国へ至る」
「南、邪馬台国へ至る」
この2国に限り、「又行く」とか「南行」とか、要するに「行」の文字がないのです。これは
「不彌国より南方、投馬国へ至る」
「不彌国より南方、邪馬台国へ至る」
と、2国を並列的に紹介している文にすぎません。
ということは、「邪馬台国は(投馬国の位置にかかわらず)不彌国より南方にある国である」と結論づけていいでしょう。

そこで今までわかったことを地図にしてみました。いかがでしょう?何かお気づきでしょうか?

スクリーンショット -0113.10.21

そう、「不彌国」の南方には、あの曹操の鏡「金銀錯嵌珠龍文」が出土した日田市に行き着くんです。

日田市が「邪馬台国」だったのか!?

その可能性は大いにあります。ですが、もうひとつ「倭人伝」で重要な記述があることを無視するわけにはいきません。その部分がこれ。

「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」
 (女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国があり、これらも皆倭人である)

この文章でわかることは、女王国のすぐ東に海がある。しかもその海は狭い海峡などではなく、東に海を渡り千余里いくほどの開けた海であり、対岸の陸地にはまた別の倭人のクニがある、と。これはそうとう有益な情報です。
「千余里の海」とは、対馬~壱岐島間と同じ距離表記。つまり60~80キロの海を渡って初めて対岸が現れ、そこにまた倭人のクニがあるわけです。日田市は、ご存知のように海がなく、残念ながらこの地形に当てはまりません。
ということで再び地図をご覧ください。
「不彌国より南方にあり」「東に開けた海のある場所」を表示します。

すると、青く表示した地域のみこの条件に該当します。
●周防灘に面した「中津・宇佐」
●別府湾に面した「別府・大分」
●日向灘に面した「延岡・日向」

画像2


その中で
(1)2世紀後半に起こった「倭国大乱」を制し、中国からの難民問題や他国(吉備・出雲・ヤマトなど)から対抗するため、北九州政権の要所に位置するクニ
(2)実力国である「伊都国」と連携を深められる位置にあるクニ
(3)曹操の鏡の出土地・日田市から近いクニ
(4)東に海を有するクニ。その海は対岸と千余里(60~80キロ)離れている

これらの条件を満たすクニはただ一つ。
そう、周防灘に面した「中津市~宇佐市」が邪馬台国であると、私は考えます。

画像3

「中津・宇佐」は、「東へ水行」し、60~70キロで対岸の山口県防府市あたりに行き着きます。日田市からも一本道で、遠くはない。また、ここに邪馬台国があることによって、瀬戸内海の東からやってくる国々を牽制でき、場合によっては関門海峡を封鎖して、ヤマト・吉備政権を外海へ通さないこともできました。ここは政治的な要所でもあったのです。
さらに申せば、ここは九州のなかでは唯一、温暖な瀬戸内海式気候でもあるため、寒冷化の異常気象に悩む九州他所よりも気候は安定し、年間日照時間も多い。他所よりはコメが豊かに獲れたはず。この豊かさは、誰のおかげ?邪馬台国女王の神力のおかげ、と人々は思ったに違いありません。そこで「邪馬台国の女王」が「倭国の女王」に共立された、とは十分考えられます。

画像4

ちなみに不彌国から宇佐市まで、距離にして116キロ。
前章で距離表記は却下しましたが、不彌国~邪馬台国間1300里を「短里」で計算しますと、
1300✖90メートル=117キロ
なんと、結果論ではありますが、ピタリ一致してしまいました。
もしかすると、陳寿が余計な操作をしなければ、魏の使者は本当に正確に距離を測っていたのかもしれません。

以上からして、このあたりが最も邪馬台国にふさわしいと確信しています。ただし稲作面積はさほど広くなく、人口は日田や遠賀川・筑後平野のほうが圧倒的に多かったでしょうから、宇佐周辺は卑弥呼の住む宮殿エリアだったかもしれません。
さて、ではその宇佐周辺に、卑弥呼のいた痕跡はあるのでしょうか?次章は遺跡・伝承・慣習なども含め、その痕跡を追って、邪馬台国宇佐説の裏付けをとりたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?