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新説!邪馬台国の真相5>>>>

新説!邪馬台国の真相5>>>>
畿内説はなぜありえないの?

「倭人伝」の裏事情をお話しする前に、なぜ邪馬台国が畿内ではないのか?をもう少し説明しておきたいと思います。

畿内には近年、歴史上ある重要な遺跡が発見されました。奈良県桜井市の「纏向(まきむく)遺跡」です。ここにあるのは、他にはみられない都市計画にのっとった宮殿、日本初の前方後円墳、日本初の巨大古墳、日本中から集まった土器類、のちの平城京に匹敵する大規模な遺構。これらを有しているのはここだけです。間違いなく日本という国の出発点だったのでしょう。
それで纏向遺跡こそが邪馬台国で、そこにある「箸墓(はしはか)古墳」は卑弥呼の墓だと考える研究者が、圧倒的多数です。マスコミの論調もこれを支持していますが、私は、”日本国家の出発点”と”邪馬台国”を、なんの根拠もなしにイコールで結んでしまうマスコミの声は危険と思っています。まずは別物として考えてみなくては始まりません。

さてそういうことで、どうしても纏向と邪馬台国は別と考える私の指摘を、4点ほどあげておきます。
1)伊都国との関係は疎遠
「倭人伝」では伊都国(福岡県)には「一大率」があり、倭国の窓口的な地位にありました。そこで女王国からの指示で交易品の管理も厳密にやっていたようです。しかも近年”硯(すずり)”が発見されまして、文字を読み書きする役人もいたと推定されます。
もし、邪馬台国が畿内にあったとすれば、伊都国(福岡県)と邪馬台国(奈良県)の間で、役人の往来が多かっただろうし、従属関係を強く示唆するものがなければなりません。しかし、両者が頻繁に行き交った痕跡となるようなもの、たとえば纒向遺跡(奈良県)から北九州系の土器や、大陸からの伝来物とかが多数出てくるべきなのに、ほとんど出土していません。また逆に、伊都国の遺跡からも畿内の遺物がほとんど出ていません。これは両者には交流がほとんど無かったことを意味します。[下のグラフ(ウィキペディア)は、纏向遺跡の搬入土器の地方別割合。北九州系土器は皆無に近い]

スクリーンショット 2020-02-05 13.35.03のコピー

2)纏向遺跡は無防備すぎ
「倭人伝」では卑弥呼の宮殿は「城柵で厳重に囲まれ、常に兵がいて、武器を持ち守衛している」とあります。が、実際に発掘した纏向の遺構をみると、まず環濠がありません。武器が出てきません。もちろん鉄器もありません。農耕具も出ません。出てくるのは土器や祭祀具で、平和的でオープンな都市だったようです。となるとどうやって守衛したのか?「倭人伝」の様子とずいぶん異なります。

3)畿内(奈良)の東には海がない
「倭人伝」の記述には「女王国の東、海を渡って千里行くと、別の倭種の国がある」とあります。つまり邪馬台国の東には海が広がっている。邪馬台国は、海沿い、または海が近いクニということになります。ところがご存知のとおり奈良には海がありません。東の海へ流れ込む川もありません。倭人伝と纏向では、明らかに地形が異なります。
実はこここそ、私が畿内説を採りたくても採れなかった、最大の要因でした。
そもそもこの一節は、大変重要なのにもかかわらず、邪馬台国論争では軽視、あるいは無視されていることに不思議でたまりません。この一節を軽視する理由について述べた論文を、私は未だ見たことがないのです。
(ちなみに下の地図は「東に千里の海がある」地域をあらわしました)

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4)古事記日本書紀の記述と合わない
昨今、「古事記」「日本書紀」の歴史的価値が見直されています。
記紀は、4世紀ころ天皇が自ら遠征して、ヤマト軍と九州軍がさかんに戦ったことを描いています。もし邪馬台国が畿内にあったなら、すでに2世紀末には、伊都国や奴国など北九州の主要国家も、邪馬台国の傘下に置かれているはずなのに、なぜ敵として戦うのでしょう?矛盾してますよね?
また記紀には、「邪馬台国」や「卑弥呼」の文字がまったく書いてありません。まるで別王朝だと言わんばかりに無視しています。


以上。これらより奈良・纏向遺跡は邪馬台国ではないと考えます。
奈良以外でも、徳島・近江など邪馬台国の有力候補地はありますが、私がもっとも重視したいのは、伊都国が倭国の窓口である以上、伊都国との交流の痕跡が、あったかなかったか。そして東に海。邪馬台国探しを、倭人伝に書かれているコースの解釈に頼ってばかりいては、永久に答えは見つからないでしょう。

というわけで、「倭人伝」がなぜあのような記述をしたか?その裏事情をお話しするわけですが、前置きで分量をとってしまいました。次回にまわし、最新の研究や私の考えをお話ししましょう。


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