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新説!邪馬台国の真相9>>>>

新説!邪馬台国の真相9>>>>
倭人伝は方角を勘違いした

まず、中国人が勘違いした「方角」から話をすすめます。
「倭人伝」では邪馬台国への道のりを、このように書いています。
上が「倭人伝」に記載された道のり。下が実際の地図に照らし合わせた道のりです。

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帯方郡から奴国までは、九州説の学者も近畿説の学者もほぼ同意見ですが、問題はこの先。このまま南へ向かうと九州を通り越し、東シナ海のどこかの離島に邪馬台国があることになってしまいます。
では、もう一度地図を拡大して、対馬~奴国までを見てみましょう。

RU-TO3のコピー


方角に注意。「倭人伝」の方角の記述では以下のようになっています。
対馬国→(行)→ 一大国 →(行)→ 末盧国 →(東南行)→伊都国
→(東南行)→ 奴国
お気づきでしょうか? 実際の方角と少しズレていますね。
どう見ても対馬国→一大国→末盧国は、「南」というより「南東」。
 末盧国→伊都国→ 奴国は、「東南」というより実際は「東」、いやむしろ「東北」に進んでいます。
つまり魏の使者や倭人伝の筆者たちは、日本列島を45度以上ズレたイメージで考えていたようです。進めば進むほど南に下るんだ、と。
下の地図は時代がくだって、1402年制作のものですが、日本列島は朝鮮半島の南(地図の右下)に描かれています。この時代でもこうですから、長らくそういう認識でいたのでしょう。

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こうなってしまった原因の、元凶は「対馬海流」です。
世界最速級の海流である対馬海流が、方向感覚を狂わせてしまった。
まずは、弥生時代前期。
「中国江南地方」からイネを持って、数多くの移住民が日本へ渡ってきました。江南地方は、日本の稲作のルーツ地ですね。江南の波止場から、真東に舳先を向け続ければ、そこに対馬海流が横たわっていますから、自然と東北へ流され、順調にいけば倭に着くわけです。
しかし、船員たちはあくまで「東」に舳先を向けているのですから、ほとんどの中国人は、「倭国」は江南の”東沖合にある”、と思ったはずです。

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同様に、邪馬台国時代。
魏の一行が朝鮮半島・狗邪韓国から倭に向かうと、舳先を「真南」に向けます。すると、実際は対馬海流に流され、「南東」に向かっているんですね。しかしあくまで魏の一行は「南」に向かっていると思いこんでいる。もちろん海流の知識はなかったとは思いませんが、平均時速2~3キロもある潮流だったとは計算外だったはずです。

ということで、「倭国」は江南からも朝鮮半島からも行ける、南北に長い列島というイメージが定着してきました。
「倭人伝」「後漢書」などの記述に
「(倭の位置は)倭への道理を計ると,まさに会稽・東冶の東にある。」
とあるのは、このためです。 (会稽=地図に示したところ。古代越国の首都)

第二は、魏使者の陸行の”勘違い”が考えられます。
魏の一行が倭に来る季節はいつ頃でしょう?
海峡を渡るわけだから、危険を避けるためできるだけ昼間が長く、比較的台風のやってこない初夏が1番多かったのではないでしょうか。つまり夏至の頃。
また、中国古代史研究から、使者の旅は相当のんびりしたものだったらしく、ほとんど午前中にしか移動しなかったと言うことがわかってきました。夏至の時、日の出の方角は、最も北よりに傾きます。すると午前中の太陽は、次のような動きになります。

太陽

この略図のように、もし一行が実際の東に向かって歩き出そうとします。すると、日の出の方角を「東」と思い込んでいる一行は、今、自分たちの進んでいる方角は「日の出より南寄り」つまり「南東」だと勘違いするのではないでしょうか?
同じように実際の東北に向かって歩くと、日の出と一緒の方角なので、一行は「真東」へ向かっていくんだと思い込みます。こうして、彼らは45度近く方角を勘違いして、倭国を陸行していたのではないでしょうか。(文章だとちょっとわかりずらいかも)
当時、「指南浮針」と言う、羅針盤らしきものはあったようですが、古代中国では方位に使ったのではなく、吉兆を占う道具にしていたらしくて、航海中には持ってこなかった。
そういうわけで、一行は重大な勘違いをしてしまいました。
”45度の勘違い”これは邪馬台国を特定する上で大きな手がかりと言えます。

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