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新説!邪馬台国の真相4>>>>

新説!邪馬台国の真相4>>>>
日の巫女がまつりごとを支えていた?

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いきなり話は飛びますが、10世紀・沖縄。
このころから沖縄では、各地方で王(按司)が現れ、部落国家を形成していました。そこにはそれぞれノロ(巫女)がおり、彼女らはクニの繁栄や五穀豊穣、航海の安全を祈祷し、王を守る精神的支柱として存在していたようです。ノロはその後、聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とした神女の組織に整備され、琉球王国の統一に大いに関わったとされています。

この沖縄の部落国家の状況が、私には日本の古代国家の状況によく似てると常々感じていました。と言うのも、古代においては祭政一致が一般的でしたので、実権を握る王と、神の神託を伝える巫女とが、ワンセットになってまつりごとをしていたようです。とりわけ北九州の国では、女首長(巫女)の伝承や記録が多く残っています。

速津媛(はやつひめ)   大分県速見郡(別府市・杵築市)付近
八女津媛(やめつひめ)  福岡県八女郡矢部村
久津媛(ひさつひめ)   大分県日田市付近
五馬媛(いまつひめ)   大分県日田市五馬高原
神夏磯媛(かむなつそひめ)福岡県北九州市
田油津媛(たぶらつひめ) 福岡県山門郡

彼女らは、「日本書紀」などでは土蜘蛛族の女首長と書かれていますが、地方部落国家の巫女であり、女王でもありました。
また北九州の盟主・伊都国王の被葬者も、女王だったということがほぼわかっています。つまり、このように北九州各地では、女性(巫女)がまつりごとを行う慣習が強く残っていたものと思われます。

ということは、彼女らは沖縄でいうところのノロであり、王権体制とは別に、どうも国境を越えて巫女たちのネットワークを構築していた可能性があるのです。
その根拠としては、日本で先駆けて九州のあちこちで銅鏡を祀っていたことがあげられます。同様の祭祀がおこなえるということは、そこに共通の信仰があり、巫女ネットワークが存在していたことを意味します。

そんな中の2世紀後半に、この大乱が勃発したわけです。
各国の王は、実権を持つ男王を「倭国王」に共立することを嫌がりました。王に据えるなら、この連合国の守り神にふさわしい人物でなきゃダメだと。
そして各国王の協議の末、「共立」されたのが、邪馬台国という国の巫女・卑弥呼であったのでしょう。
かくして、卑弥呼は巫女の頂点に立ち、また「倭国」の王という立場に立ったのです。「倭人伝」の中に、「卑弥呼のまわりに侍女千人いた」という記述がありますが、これは間違いなく各地から派遣された巫女ネットワーク集団のことだったと思います。

さらに申せば、247年卑弥呼が死に次の王に男王が立ったら、再び倭国が混乱して千人殺される事態に陥りました。しかし卑弥呼の宗女・トヨを共立したら戦いは収まった、と「倭人伝」は伝えます。「宗女」とは卑弥呼の親族のことではないか、と通説は言いますが、トヨは巫女ネットワークのひとりでしょう。人々は権力を行使される男王を嫌い、再び精神的支柱として巫女集団から女王を立てたのでした。

このように歴史的な流れに沿ってみれば、邪馬台国連合は九州にあったことで、納得できます。邪馬台国は、北九州のどこかにあった、それは確実でしょう。

しかし大きな疑問は残ります。
北九州は鉄をいち早く取り入れ、たしかに当時の先進文化を享受していました。が、奈良の纏向遺跡のような、群を抜く絶対的な遺跡はありません。箸墓のような巨大古墳もありません。吉野ヶ里遺跡があるではないか、とおっしゃる方もいるかもしれませんが、大遺跡には違いないけど、同レベル規模の遺構は国内に数カ所(あるいは十数カ所)見つかっているので絶対的な遺跡とは言えません。

にもかかわらず、なぜ魏の皇帝は卑弥呼へ「倭国王」の金印を授けたのでしょうか?
魏は九州以外の倭国を知らなかったのでしょうか?
いえ、知っていたはず。たとえば岡山県高塚遺跡では、中国王朝「新」の貨幣が25枚出土していることから、岡山と中国王朝と交易があった可能性も推定できます。また、青谷上寺地遺跡(鳥取県)では、2世紀に中国人が大陸のあちこちから直接渡来したことがDNA鑑定から判明しています。中国人が九州以外の倭国を知らないはずありません。

では、なぜ魏は北九州の中小国連合の女王を、「倭国王」と認定したのか?
おかしいですよね?
その理由は、なにやら中国王朝側の事情にありそうです。
次回はさらに突っ込んで、「倭人伝」の書かれた裏事情を探ってみたいと思います。


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