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夏の庭

 僕は部屋の窓から外を眺めた。
 夏空はどこまでも青く美しく、海は朝日を反射し、きらきらと光った。
 昨日の雨で芝生は青く輝き、至る所に夏の花が揺れている。
 赤いサルビア、無秩序に蔓を伸ばす朝顔の赤や青紫。鮮やかなオレンジのノウゼンカズラ。
 世界がこんなにも美しく、生気に溢れている事を、僕はここで初めて知った。

 僕は窓際から離れるとごろりとベッドに横になった。
 煤けた天井を見ながら考える。

 数日前に隣の部屋の男が言っていた。
「また、鬼婆が来た」と。
 10名程いた仲間は次々に鬼婆に追い払われた。
 どこに追い払われたのかは知らない。彼らは消えてしまった。
 残っているのは僕とその男だけだった。

 実を言うと僕はまだ鬼婆を見た事はない。

 鬼婆はたっぷりの黒髪をぐるぐると結い上げ、赤い紐で結わえてあるそうな。
 猪首いくびで、この世の者とも思われぬ、でかい鼻と口と耳を持っているそうだ。背は低く肥え太り、これまた真っ赤な着物を着ている。しかし、何よりも恐ろしいのは太くて黒い眉の下の、その焔の様な目だと言う。
「めちゃくちゃ怖えぞ」
 隣の男はそう言った。
「鬼婆の数珠に捕まったらもう終わりだ。気を付けろよ」

 僕は頷いた。だって、まだ消されたくはない。
 僕はここがとても気に入っているのだ。

 焦げたカーテンが割れた窓から入る風で煽られ、ぱたぱたと鳴った。
 壁紙は焼けてボロボロに剥がれ落ちている。素晴らしい家具も調度品も焼け焦げて無残な姿を朝日の中に晒していた。
 僕は立ち上がると、クローゼットを開けた。内から扉を閉めると狭いその中に膝を抱えて蹲る。真っ暗闇だ。その闇が僕の心を落ち着かす。

 ここにいれば安心だ。鬼婆は僕と闇の区別が付かないだろう。僕は闇に溶けてしまって見えないのだから。
 だから、僕はここで眠る。
 真っ白な浜辺や青くて深い海や森の奥の神秘の湖や星を散りばめた宇宙の事や、昔、愛していた女の事を考えながら眠る。


◇◇◇◇  ◇◇◇◇


 声がする。僕はふと目覚め、耳を澄ませた。
 声は近付いて来た。

「・・・・どうして幽霊に足が無いかと言うと、消えゆく過程にある姿を表現したという事らしい。異時同図法という事らしいよ。時間的な推移を一場面で表現しているからなんだ。応挙の幽霊画が有名だけれど、近松の作品の挿画が一番古い作例らしい。身体の一部を残して一部を消す事によって消えゆく幽霊の絵画化を可能にしたと、俺の読んだ論文にはそう書いてあった」

「いや、ちょっと読んでみただけなんだけれどね。面白そうだから。で、成程なって思ってさ」
「じゃあ、ここにいる幽霊達も足が無いのかしら?」
 女性の声がした。
「きっとそうだろうな」
 男は返す。
 僕はクローゼットの中で自分の足を見下ろした。足どころか真っ暗闇で全てが見えない。

 かちゃりとドアが開いてライトの光が部屋の中を動くのを扉の隙間から見た。
 僕は息を詰めて目を閉じた。
「どうか見つかりませんように・・」
 すぐそこで足音がする。

 二人の会話が聞こえる。
「このホテル、火災で廃墟になってしまったのでしょう?」
「そう。もう十年以上も前の事だ。10名の死者が出たらしいよ。」
「ここは丁度山の天辺で道のどん詰まりだろう?だから放置していても、誰の迷惑にもならなかったし、持ち主は処分する金も無くてそのままなんだ。行政も勝手に処分が出来ないしね。売りに出されても、こんな事故物件、誰も買わないよな」

「ところで君は怖くないの?ここは有名な心霊スポットらしいぜ。火事で亡くなった人達の霊が出るらしい」
「怖いけれど、仕事だから。それより動画、ちゃんと撮ってよ」
「分かっているよ。あちこち撮っているよ。帰って確認する。もしかしたら、応挙の幽霊図みたいのが写っているかも知れない」
 彼等は暫し黙る。

「何か音が聞こえるといいのだが・・。ところで、ここに除霊師が来たらしいぜ。すげえ強力な除霊師らしい。所有者が依頼したのだ。侵入者が多いから。立ち入り禁止なのに。幽霊がすっかり祓われてしまう前に何とか幽霊を撮りたいね。」
 男は言った。

 二人の足音は部屋から遠ざかって行った。
 僕はクローゼットから外を伺い、そっと扉を押して外に出た。
 部屋の中は満月の光で明るい程だった。心霊スポット探検には絶好の夜だ。

 僕は男の話を思い出した。
 月明かりの下、姿見に映る自分の姿を見てみた。
 僕の足は消えていた。

 突然、ばんとドアが開いた。
 誰かがドアからこちらを覗き、僕を見付けた。
「見付けたあ!!」
 鬼婆が大きな目を剥いて僕を見据えた。
「ロック、オン!」
 鬼婆が叫んだ。そして僕に突進してきた。
 僕は「ひいっ!」と叫んで飛び上がった。
 思わず駆け出した。
 足が無いなんて言っている場合じゃ無い!
「待てええ!」
 鬼婆は追って来る。髪を振り乱し、数珠を片手に。
「きえぇぇ!」
 奇声を上げて僕に数珠玉を投げ付けた。
「うわあぁ!」
 僕は叫びながら部屋中を逃げ回り、窓を乗り越え、月夜の庭に大きくジャンプした。
 足が無くても。



 


novel daysにも短編としてアップしています。
お題は「思わず走り出したくなる話」でした。


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