見出し画像

自我パラドックス

コロナになった。
(というか現在進行形だ)

39℃近く熱が出て
薬も食べたものも全嘔吐して
何も受けつけなくなって
こりゃもう死ぬと思った。

あまりにもきつすぎて
点滴を打って欲しいと思った私は
(経験上、水分取れない時は
点滴打つしかない)

行きつけの病院に電話すると
「受け入れはできません」
と言われた。

政府機関に電話をしたら
「2、3日は
何も食べなくても大丈夫なんで」
と言われて
「お前を呪い殺してやる」
といいかけて電話を切った。

死にかけるとわがままになれるもので
救急車をよんだ。

担架にのせられ ぐるぐるにしばられ
救急車にのったときは
やたら西日が穏やかで
ゾンビ映画のエンディングのようだった。

隊員が代わる代わる似たような質問をする
「お名前は?」「生年月日は?」
朦朧としながら答える
たぶん意識を途切れさせない為だろう。

しばらくして
受け入れてくれる病院へ。

対応してくれたのは
若い医師と看護師さんで
ふたりともかなり優しかった。

「つらいですよね。
僕も最近なったのでわかります。
でも、大丈夫ですよ。」

「私もなったとき高熱でした。
がんばりましょうね。」

共感してから指示を出す
という事が徹底されていた。

血液検査をした
オッサンの医師は
「肝機能悪いね~?酒飲むの?」
「コロナでビビっちゃった?」
など口の軽さが耳についた。

こいつも呪い殺すリストに追加決定だ。

そんな冗談はさておき
なぜこのように対応に差が出るのか
少し考えてみることにした。
(考えるのが趣味なので仕方ない)


イキったり、軽口を叩く心理には
「自我を解放する」という部分が
大きいのではないかと思う。

職場で自我解放をやるやつは
家庭で居場所がなかったり
どこかで自我を抑えなければならない状況が
継続的にあるのだろう。

自分より弱いやつには
自我解放をしていいと思ってるらしい。

私が自我解放するときは
自分より「強い」と判断した人だけなので
(もしくはnoteみたいな人との間に
ワンクッション入ってるもの)
まずコイツらの気持ちは共感できないが
俯瞰してみると理解することは出来る。

1.自我解放を職場でやる
2.自我解放を自分より弱い者にやる
(やり返される恐れがないから)

なんとも哀れではあるが
結構多いのではないだろうか。

パルプ・フィクションの
「本当に救わねばならぬ弱者は
強者のふりをするものだ」
という台詞が思い出される。

ここで提案だ。
職場や公で自我を出したくなったら
猫耳の着用、語尾に「にゃん」
をつけることを義務化しては如何だろうか?

少なくとも今よりは不快になる人は減る。
(それでもイラつくけど)

本質的には「恥ずかしい」という
気持ちを持って欲しいという事だ。

自分は恥ずかしいことをしているんだ
という意識がひとつあるだけでいい。

恥ずかしいと思う上で自我を解放してるなら
もはやそれは変態なのでほっておこうと思う。

ちなみにこの文章は
高熱のジェットコースターの
合間に書いてるので色々許して欲しい。

論破せねばならぬ性分なのだ。

最後までお読みいただきありがとうございます、今日もいいことありますよ!